DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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最近ふと、私の人生ってイケてるのかなとか思うことがある。
何をしていてもいつも満たされない部分があって、いつも何かが心配だ。

年をとればとるほど、幸せって自分の心の持ちようなんだなって分かるようになった。
いつも何か完璧を求めて足りないものばかりに意識が行くと、いつまでたっても幸せな気分になれないんだよね。

特に自分のことばかりに目がいってると、幸せな気分になれない。
周りの事柄や変化に注目してたほうが、たぶん満たされることが多い。

でも一人でいるとどうも、思考回路が内向きになってきちゃうな・・・



先日友達に誘われて、新進気鋭のピアニスト、辻井伸行さんのコンサートに行ってきました。
一言で言うと、とても感動した。勇気をたくさんもらった気がした。
彼は生まれつき視力障害があって、恐らくほとんど(かまったく)見えていないと思うんだけど、もちろんそれは音だけ聞いてたら分からない。素晴らしい演奏だった。

でも、音楽に素人の私がものすごく感動したのは演奏の最中ではなく、演奏の後でした。
会場からの割れんばかりの拍手。オーディエンスである私たちには、それが唯一彼に伝えられる賞賛のメッセージだった。満席の会場も、スタンディングオベーションも、満足気な笑顔も、不十分に思えた。

私はその時初めて、「心をこめた」拍手というのをビンビン体感した。
もちろん他のコンサートでも皆さん心をこめているだろうし、劇場でバイトしてたときもすごい拍手のときがあったけど、なんか自分の手から発せられる音で伝えられることに、少なくとも私は集中してたのです。

それで思った。

普段何気なく発している言葉や、ジェスチャー(まなざし、ボディランゲージとか含め)は、たぶんもっと本気になれる。
変な言い方だけど。


あと、もうひとつ思ったことは、やっぱり人間何かを極めることが大切なんじゃないかということ。
(失礼になるかもしれないことを承知で言えば、)辻井さんが例えばピアノをやってるのとやっていなかった場合の差ってすごく大きかったと思う。そしてその状況は、みんな同じだということ。
もちろん目が見えないということに比べたら何でもないけど、人はそれぞれ何かしら弱点があって、でもそこに捉われて何もしなかったら、その弱点ばかりが目立って人生を生きていかなきゃならないかも知れない。
でも、何か社会と自分の関係を意味のあるものにすることに力を注いでいけば、人を感動させることができるだろうし、多くの人に認められるようになるだろう。


自分の短所や足りないものを改善するのも、バランスを取るには重要だけど、
もっと自分が人の役に立てそうなこととか、好きなこととか、そういうものに目を向けよっと。









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  1. 2012/05/29(火) 07:10:57|
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自分の感性とか、そういうもの

待ち合わせはローソンで おにぎりを二つ買って
つないだ指は ワンスモアタイム
行き止まりで口づけしたんだ
君の機嫌は天気雨 土砂降りなら中央線で
胸元に落ちた花びら 季節はもう2回目の春だった

手作りの祭壇に 花を飾りましょう ディン・ドン
電車は走る 雲の影を見た

君を想い 幸せを願い
暮れゆく黄昏の中にいた
生きてるそれだけが 変わりのないストーリー
いつまでも 君の横顔見てた

角の犬に吠えられて 銭湯の湯は熱すぎて
浮気をしては仲直り そしてそれはヒドイ間違いだった
暮らし始めたら 何かが変わるような気がした
君の古着の スカートたくしあげたら

愛よじれったいような愛よ
渡しあった夜は薔薇色
物語は続く 君の思い通り
最後のページ 開かれないストーリー

ただ君を想い 幸せを願い
暮れゆく黄昏の中にいた
生きてるそれだけが 変わりのないストーリー
いつまでも 君の横顔見てた

― YUKI 『2人のストーリー』


やけに切ないメロディーにうたれる。やっぱりYUKIいいなと思う。
大人になっても、慣れ染んだ声とかヴィジョンがあるっていいなと思う。

いくつになっても、自分が愛してきた世界を大切にし続けたい。
自分の感性みたいなものしか、最後は信じるものがないだろう。


YUKIが男性目線で「同棲」をテーマに歌ったこの曲。
このあと、この2人はどうなったんだろう?


同棲という生活の甘いけだるさと、切なさ。

なんとなく宙ぶらりんなステイタス。
まったく違う2人が、新しい生活を紡ぐ場所。
何の拘束力もなく、ただ身を寄せ合って。
でも結婚が延長線上にあるとしたら、一つ屋根の下で暮らすことの本質って何だろう。


愛、とか。

たぶん、愛とか。

セックスとか、打算とか、経済合理性とか。

なんとなく、とか。


人間(動物)の「なんとなく」は実は一番信用できると思う。



論理とか言葉とか、
そういうものが無い世界で生きられたら幸せなのになあと、願ってみたりする。








  1. 2012/05/19(土) 07:43:23|
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Another World

ある友人の撮った写真を見ていて、世界には底抜けに美しいものを見ている人がいるものだ、と思った。私たちの共有する、同一であるはずの世界に。同じように、とても醜いものを見ている人もいるのだろう。美しいとか醜いとか、それは好みの問題でしかないのかもしれないけれど。私は誰もが認めるような、圧倒的な美しさに憧れつづけてきた。底抜けに、一点の曇りもなく美しいもの。比類なき強さを持つもの。人の心と体をその明るさで透かし、貫くような光。でもそんなものはどこにもないのだと、この地球上にかつて存在したことすらないのだと囁く声に、耐えられなくなりそうになる。そして戸惑い、もはや私たちは文字通り違う世界に住んでいるのだと、そう思わざるを得なくなる。共有できるものがないということは、本当に不幸なことだ。裏を返せば、ほんの一瞬でも何かに対して感動を分かち合える瞬間というのは、とても貴重なのだ。ある世界の住人が、違う世界の住人と交差するチャンスなのだから。

日々の出来事やコミュニケーションを、体験や感情の共有ということに注意してみてみたいと、最近思うようになった。



  1. 2011/07/05(火) 09:12:36|
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楽園

今日、家族と一緒に夕飯を食べに行った帰り、本当に久しぶりに、子どもの頃よく連れてもらっていってたソフトクリーム屋さんに寄ったら、隣に「天国」という飲み屋が出現していた。看板のふり仮名をよく見ると、「てんごく」じゃなくて「てんくに」というらしい。でもなんか一瞬空間がぐにゃと揺れたような気がして、ふと、ここに入ったら天国に行けるかもなんて思った。小さな頃から通ってたソフトクリーム屋さんの変わらない佇まいの懐かしさと、「天国」の中に満ちている暖かい光とおそらくアルコール分がリンクして、不思議な空間の歪みを作り出したのだった。

てんごくだって。てんくにじゃなくててんごく行こうぜーと友達と誘い合わせて行ってみたいものである。

居酒屋見て「天国」がしっくり来る歳にもなったものである。

ロンドンの友達に運搬を託された10何枚のCDが実家に届いて、その中の一枚が、イエモンのベストアルバムだった。恐るおそる、久しぶりに聞いてみたりする。楽園―「いつか僕らも大人になり老けてゆく」。ちょうど高校の卒業式の頃に出たのが「プライマル。」で、友達が熱唱してるのを聞きながらなんか跳べそうだなーとぼけっと思っていた時から早、10年ほど。部活のみんなと行ったはじめての打ち上げで超歌のうまい先輩が歌ったのが、「太陽が燃えている」。「パール」と「バラ色の日々」、「love love show」を当時出たてのMP3プレイヤーで聞きながら自転車を疾走させてなお朝は遅刻し、「聖なる海と~」と「ピリオドの雨」で人生の酸っぱさと苦さを噛みしめ、「Burn」で自分を奮い立たたせて髪をなびかせて歩きetc...ほかにもいろいろ。メンソールのタバコも吸わなかったけど、今振り返るとほんと思い出深い曲ばかり。そう思えるほど、ここまで歩いてきたのだなと思う。


過去は消えないだろう

未来も疑うだろう

それじゃ悲しいだろう

やるせないだろう

いつも僕らは汚されて目覚めていく

Make you free 永久に 青く


「汚されて目覚めていく」の超絶的な表現のうまさよ。ああ高校の同級生のみんなで、熱唱したい。


















  1. 2011/01/07(金) 00:43:18|
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時間損人間

夏休みが終わり、ようやく新学期も始まったものの超低速スタート。。体調が悪いのが長引きすぎて困りすぎている。もう3週間くらい風邪をこじらせてしまい、咳でなかなか寝付けなくて最終的に眠れるのが朝方4時くらいで、起きるのが結局お昼・・・「朝早く起きられないと一日損した気分になる」と言ってた友人の言葉は、その当時(学部生のとき)はまるで理解不能だったけれど、早起きすると午前中がとてつもなく長いということが分かってからは、寝過ごしてしまうと本当になんだか損した気分で一日をスタートしなければならないということがわかった。すなわち、最近損な気分ばかりである。

しかし、どうも昔から時間の効率的な使い方とは縁がない。時間にお得な使い方と損な使い方があるとしたら、私は損な使い方をしているほうが多いような気がする。そもそも、時間の区切り方が曖昧である。「一日」とか「一週間」とか、今やほとんどの人に共有されているはずの時間の単位がどうもしっくり来なくて、もっとこう、のっぺりとした、延々と続いているかのような流れのようなもの、切れ目のない平たいうどんのようなものがずーっと続いているような、、、私にとって時間はそういうふうに感じられている。要するに、時間というもの(ひいては自分の生活そのもの)を区切ったり制限をつけたりすることがうまくできないのだ。

そういうある意味「効率性」を無視したような無計画さは人生のプランにも影響していると見えて、そういう傾向によって研究職とか、そういう方向に導かれて来たのではないかと思う。(むしろ順序は逆で、長い学生生活によってそういう感覚が培われたのかもしれないけど)。しかし、実際には、なにごとにも制限がある。時間的な制約だけでなく、経済的、エネルギー的な制約もある。何の活動(空間における移動=出来事)もしないままでは、まさに損な時間の使い方を日々繰り返すだけだ。

と思いながらも、無駄な時間(無駄な時間が何かを言うのも難しいけど、たぶん非生産的な時間)を有益な活動で塗り替えていくのはとっても難しい。怠けたり、心が落ち着かなかったり、正当化したり、心配したり、躊躇したりしてしまうから。古来の哲学者たちがなぜあれほどまでに「時間」(と空間)という不思議なものについて論じ続けたのか。今ここにいる自分と、今ここにいない自分。命の制限。哲学というのはいつもとても身近なことから問いがスタートするのだけれど、時間がどれほどほんとに切実な問題なのか、それについて考える時間が一体どれほど重要なものなのか、そんなことを考え始めると、余計に今日何をしたらいいのかわからなくなる。













  1. 2010/10/07(木) 21:39:12|
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