DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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Postman in the Mountains / 山の郵便配達

シンプルなストーリーを、よくここまで仕上げたものだと思う。静かに泣ける作品だ。舞台は80年代初頭の中国山間部。そこで長い間郵便配達をしてきた父の仕事を息子が引き継ぐ。父は配達の公務のためほとんど家におらず、いつも妻と幼い息子を残して仕事をしてきた。その険しい山道を行く厳しい仕事を、たくましくなった息子が継ぐのである。よくあると言えばよくありそうな、息子が父という男の人生を理解していく物語なのだけど、描かれているのはなぜか息子の心情の変化というより、徹底して郵便配達の誇りややりがい、希望をせがれに託す、そしてはからずも家族に寂しい思いをさせてきたひとりの男の、寡黙な旅だったように思う。その意味で、この映画には前にも後ろにも絵として切り取られなかった長い時間がある。それは父がおよそ20年ほどの間、いろいろな体験や思いをしながら歩いてきた道そのものである。そして息子がこれから辿っていくであろう道のりである。だからたぶん、河原で父親が相棒の犬に向かって、「おい、聞いたか?あいつ初めておれのことを父さんって読んだぞ」と言ったシーンよりも、終盤の父の回想シーンに涙があふれたのだと思う。山という悠久さを感じさせる舞台も、変わることなく繰り返される人々の生活みたいなものを含んでいたと思う。

郵便配達とは、どういう仕事だろう。誰かの声と想いを、宛て名の誰かに届ける。そしてそれを待っている人がいる。私は個人的に、郵便配達の人とか車掌さんとかパイロットとか、何かの道途にあってモノやひとや心をどこかからどこかに送り届ける仕事に携わっている職業(人)が好きだ。彼らのもとには、何も留まることがない。彼ら(またはそれらの機構)は多くの人にとって、出発点にも、目的地にもなることがない。けれどそれなくしては、何かを受け取ることや送ることが、できないのである。手紙に限って言えば、今や携帯のメールやインターネットで瞬時にメッセージをやりとりすることができる。私たちはもはや待たない。何かが届くのを、本当に辛抱強く、待ち侘びるということが少なくなった。でも例えば、今メールでやりとりしている言葉がこの映画の郵便配達の速度でしか届かなくなったとして、そうしたら私たちは一体、何を伝えようとし、どんな言葉を選ぶだろう。インターネットで限りなく短くなった配達時間と距離、それによって薄っぺらくなった時間と空間の厚みや重さは、私たちの言葉をどんなふうに変えているのだろう。

よく分からないけどやけに印象的だったのは、郵便配達夫の妻が、息子が産まれたときにも留守だった夫に宛てて手紙を書いたこと。そしてそれが、後にも先にも彼女が彼に出した唯一の手紙だったこと。



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  1. 2009/06/25(木) 00:25:56|
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カンナさん大成功です!

何かラブなコメディが観たいと思って『カンナさん大成功です!』を観てみる。韓国映画だが、原作は日本の漫画家・鈴木由美子の作品らしい。そして原作を読んだことがないから比べようがないのだけれど、「デブの女の子がスレンダーになる」というプロット以外は原作とはまったく違うストーリーらしい。それにしてもなんだか展開がうまくて、主役の美女に見とれてたらあっという間に終わってしまった。

「整形したら幸せになれるのか?」「整形美人はアリなのか?」という整形の是非を問う疑問に、白黒つけた答えを出さなかったところがこの映画のいいところだと思う。とはいっても現実はもちろん、映画に描かれているよりももっと複雑だろうけれど。主人公カンナさんの整形の動機を恋愛と結びつけ、至るところに「あ~、それってあるよね」みたいな笑いをちょこちょこ挟んでいるのが、整形に関する複雑な問題をあまり引きあいに出さずにまとめた手腕だと思う。聞くところによると整形大国である?韓国からこの映画が出たっていうのがすごいなと思ったし、今度韓国の友達とこの映画と整形について話してみたいと思った。

今は音や声のよさに増してビジュアルが重視される時代だろう。ふと北京オリンピックの口パク少女のエピソードとか、なぜか北朝鮮の「喜び組」と呼ばれる女性たちのことを思い出す。整形は大きなテーマとしてあったけれど、それ以前に『カンナさん大成功です!』を貫いていたのはやはり、女性の美しくなりたい(しかも好きな男性に振り向いてもらうために)という願望/欲望だ。ここでなぜ女性は美しくなりたいと願うのか?、その問いを突き詰めることは私にはできない。たぶんメディアが映し出す理想の身体とかセレブリティの虚像への願望について、なぜ「そのようなルックス」になりたいと思うのかを説明することはある程度可能なのだ。しかし、なぜ女性は美しくなりたいと願うのか?という疑問には、生物学的な解説を持ち出しでもしなければ答えることはできないだろう。なぜなら主人公カンナさんの気持ちが、つまり好きなひとのためにキレイになりたいという気持ちが、分かりすぎるほどよくわかるからである。それが究極的には、自分のためだとわかっていても。

ひとつ気になったのは、なぜカンナさんの家族として登場したのが母ではなく父で、しかもたぶん痴呆症?か何かでなぜ彼が病院にいたのか。彼女はたぶん彼の入院費用を払うために、映画の冒頭でテレクラみたいなバイトをしているのだけど。純粋に見たらエンディングも父と娘のいい話なんだけど、やっぱりいろんな意味で、男性にとって女性が付属品・商品であるという構造がかたくなに守られていたような気がする。象徴的だったのは、父親がカンナさんにプレゼントしたジェニーちゃん人形(バービーとかリカちゃんかも知れないけど)の行方だ。彼女は生まれ変わろうと決意をして整形クリニックに向かうとき、バービー人形を鏡台から持っていく。そしてその後どうやってそれが病院にいる父親の手に渡ったのかは分からないけど、CDアルバムの発表パーティに不慮に連れてこられた父親がその人形を「ジェニー」(整形後のカンナ)に渡そうとしたとき、ジェニーはその手を振り払う。このバービー人形はジェニーが整形美人であることを告白したライブのシーンでもやはり父親の手に握られており、その人形を振りかざしてステージに向かってくる父を見て、ジェニーはすべてを暴露する決心をするのである。映画では一見、女性の美しさによって態度を変える男性たちの姿が滑稽に描かれているようなのだが、この人形にまつわる物語はそれより深いところにあるように思う。

父親の手に握られていたジェニーちゃん人形は、彼女が医者・プロデューサー・音楽関係者・カメラマンといった(すべて男性の)手によって美しくされ、つくられ、市場に売られていくカンナそのものではなかっただろうか。こういう見方をしてしまうと、ライブ前の控え室で、「これは僕のためじゃない、これは君のショーなんだ」という当の思われ人である男性のセリフも、「自分が誰だか分からなくなってしまった。昔の自分が恋しい。」と整形していることを告白し、整形前のカンナの姿が大スクリーンに映し出されたあとで、観客から沸き起こる"It's OK"というシュプレヒ・コールも、なんだか空恐ろしく聞こえてしまうのである。カンナが以前ゴーストシンガーをしていた女性も、外見はいいが歌がまずいからsingerとしては成立しないという場面も、芸能界の現実を象徴しているようでいて、実は彼女は、声を持たない女性の典型なのではないだろうかと思う。

先日ブログ仲間が、ドラマ『スマイル』のヒロインが声を持たないこと、また村上春樹の『1Q84』にも声を持たない女性が出てくると書いていた。思をめぐらせてみれば、『星の金貨』とか『君の手がささやいている』とか、どうも声を持たないのは女性という設定がどうも多い気がする。カンナさんは素晴らしい声を持っていたが、体を持っていなかった。声、実体、女性―考えるべきことは多いが、とにかく面白い映画だった。


その他:ヘアスプレー
  1. 2009/06/16(火) 07:50:48|
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Usual Suspects

あまり観たくないような気もしていたのだがユージュアル・サスペクツを鑑賞。この映画は、スリラー・サスペンスというジャンルに属するようだ。とにかく人がバンバン殺されるし、正直あんまり面白くないなあと思いながら最後まで見たのだが、幕の引き方が最高にかっこいい。

"The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he didn't exist. And like that... he's gone"

ストーリー自体はそれほど複雑というわけでもなく、これがサスペンス映画だという予備知識があるとあまり楽しめないかも知れない。というのもすべての計画を総ている謎の悪魔的人物、カイザー・ソゼは誰なのか?がかなり早い段階から予測できてしまうからである。冒頭のエピソード、映像の不均等さや語り手の転換がそれを示唆してしまう。だからむしろ、カイザー・ソゼの正体を暴くよりも、5人の容疑者が集められたときのやり取りや矢継ぎ早に交わされる会話を楽しむべきなのかもしれない。The illusionistのような最後の「やられた~!」感は無かったな。

面白いと思うのはカイザー・ソゼを指すのに使われる「悪魔」の比喩と引用した最後の言葉。悪魔と言葉。全編を通してひとつの中核となっており、またオーディエンスにとって疑問であり続けたのが、「カイザー・ソゼは本当に存在するのか?」という問いだった。これは本当は全然関係ないかもしれないけど、「悪魔の証明」(devil's proof)と関連しているのかな?と思った。つまり存在しないもの(悪魔)が存在しないということの証明はできないという命題。悪魔の証明は法的な場で実証不可能な証拠を提出することを求める無茶な要求を指して使われるのだが、これが存在や事実ということに関してちょっと面白い概念。実際にあったものや起こったことを証明することはできても、実際になかったことを証明するのは非常に困難である。「存在しないこと」をどうやって証明し得るのか?

この映画ではまさに、その不可能な証明がなされているのである。証明というか、少なくとも「悪魔が存在しないこと」を信じさせることによって、(存在したか否かにかかわらず)それは霧散してしまうのだ。何かが存在することを誰かに信じさせるのは難しいが、何かが存在しないことを信じさせるのも同様に難しい。日常生活で考えたら「浮気していない証拠」とか、身の潔白とか。私たちは(実態がどうであれ)、時々そこに何かがあることを信じられないのと同じくらい、何もないということを信じられないのではないだろうか。カイザー・ソゼはそのまさしく悪魔的な証明を、やってのけた。言葉を巧みに操ることによって。少なくとも彼以外の人間には、そう信じ込ませたのだ。そうして彼は、姿を消すのである。


その他の映画: A Perfect World (パーフェクト・ワールド)
  1. 2009/06/15(月) 07:46:46|
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おくりびと

話題になっていた『おくりびと』がネット上にアップされていたのを発見して見てしまった。一言でいうと、泣ける映画。ひとつの作品としては、なんとなく尻切れトンボな感じが否めない。見終わったあとに考えたのは、「主役は誰だったのか?」・・・もちろん描かれ方としては、主役とその周辺の人々という明らかな位置づけがちゃんとあったのだけど、おくられていく人々、弔われる人々、つまり彼らもいつか必然的に誰かをおくったであろう人々、そのひとりひとりの存在の喪失が、この映画を成り立たせていたような気がする。しかし描かれていたのは確かに、おくられるのではなく、おくる側にいる残された者たちだった。お葬式でとり行われる一連の儀式は、やはり故人のためというよりは、残されたもののためのものなのだと改めて思う。

ややセリフの唐突さに違和感はあったものの、納棺師の仕事に慣れてきた夫に広末涼子扮する妻が「さわらないで、汚らわしい!」と言うシーン。または主人公の幼馴染が「まともな仕事に就け」というシーン。死=穢れであり忌み嫌われるものという伝統的なアイデアをあらわしていたし、死を取り扱う職業である納棺師に対する蔑みの目が描かれてたいた。しかし彼らの主人公に対する接し方は、実際に彼らが親しい人の死に触れることで理解あるものに変わっていく。でも彼らの心情の変化はたぶん、納棺師に対する姿勢の変化というよりは、死そのものに対する受容の過程の変化ではなかったかと思う。死が日常生活から隔離されている現代において、死は忌み嫌われ、避けられ、そして怒り、不安などを引き起こす。死は常に先延ばしになっているのだ。しかし体験されるはずだった死は、かならず誰のもとへもやってくる。それが自分のものであれ、他人のものであれ。そしてそれは、静かに受け入れるものになる。

この映画を見ていて気がついたのは、私は一度も、人間の死というものに触れたことがないということ。つまり死んだ人間の体に、触れたことがないということだ。例えばひとが死ぬということは、彼または彼女がもはやそこにいないということ、そしてもはや動かないということなどから、少なくとも私の場合、とても視覚的な喪失が死なのだ。我が家の猫が死んだときも、鳥の死骸を公園で見つけたときも、せみの抜け殻さえも、私はそれに触れたくなかった。何かが決定的に、もはや生きていないものに触れるのを拒むのだ。冷たい体。さっきまで動いていた体。それがもう熱を持たないこと。冷たく、かたくなってしまうこと。そういう触覚的な死を体験することを、たぶん私は恐れているのだと思う。その命に触れられなくなること、それは本当に、記憶の中でさえ再生することのかなわない絶対的な喪失だ。


一番印象に残ったシーンは空っぽになった銭湯に夕日が差し込んで、火葬場のおじさんをひとりにしているところだった。



  1. 2009/06/12(金) 07:23:16|
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レ・ミゼラブル

Les Miserables コンサートバージョン@Royal Albert Hall

日本語訳『ああ無情』、その名前はもちろん知っていたし中身もなんとなく知ってはいたけれど、一度もちゃんと読んだこともなければミュージカルも見たことがなかった。『ああ無情』とはよく訳されたものだ。今回見たのはミュージカルの歌にナレーションを付け加えることで、物語の筋をこわすことなく伝えるコンサートバージョン。イギリスでのミュージカル公演10周年を記念して開かれたコンサートのものだ。収録は1994年なのにちっとも古さを感じさせない、素晴らしい編集と極めて高い完成度のコンサート。このコンサートに参加できた方たちは本当に幸せだと思う。

舞台は1815年から1833年6月革命までの18年間の激動のフランス。歴史的・政治的背景については勉強が必要だが、貧困と不条理な生活環境が想像を超えるひどい状態だったことが何にも増して感じられた。たった一本のパンを盗んだだめに、19年間も牢獄に収監されたジャン・ヴァルジャン。法律の遵守を新年に掲げるジャベール。幼い娘を守るために売春婦になったフォンティーン。実らない恋に思いを焦がすエポニン。死人から貴金属を奪って金儲けする夫婦。新しい世界の到来に希望を燃やす青年たち。そして貧しく、冷たい生活の中で死んでいく名もない人たち・・・

このミュージカルはおよそ200年も前を生きた名もない人々、しかも生きた時代のみならず風土も文化もまったく違う人々を、私にリンクさせてくれる力がある。それぞれの生きた命も、希望も、絶望も、まったく様々な人々が、本当にそこに生きていたということ。レ・ミゼラブルはそれを鮮やかに、情熱的に、そして哀しくも伝えてくれる。もっと違うことを読み取るべきなのかも知れないけれど、私がいちばん感じたのは、その時代を生きた個人の、それぞれまったく違う人生が、とても尊いということ。それが独唱や、独唱の重なりや、合唱のいくつもの声に切実にあらわれているのが素晴らしい。ひとつの壮大な音楽を紡ぐように、ひとつひとつの声が主題を変化させて交錯していく。そしてまったく違う人々の声が、まったく違う希望や絶望を抱えて重なり合う瞬間がある。劇中の歌で印象に残っているのは、かのテレビ番組でスーザン・ボイルが歌ったI Dreamed a Dreamはもちろん、力強さを増していくDo You Hear the People Sing?に加えて、時代を紡ぐ朝を待つOne Day Moreなど。

例えば"Will you join our crusade? Who will be strong and stand with me? Beyond the barricade is there the world you long to see? Then join in the fight that will give you the right to be free"とか、"One more day before the storm, At the barricades of freedom...the time is now, the day is here"とか、one more dawnの到来を信じるまさしく「夜明け前」。それを待つ情熱と震え。そういうものがよくここまで素晴らしく表現できたものだと思う。

歌詞の隋所に私の研究テーマである崇高を感じさせるものがあって、それもいい発見だった。この10周年記念のコンサートの様子はyoutubeでもサブタイトル付きで見られるのでこの記事を読んでくれた人はぜひ見てみて欲しい。
  1. 2009/06/07(日) 23:01:24|
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トニー滝谷

映画 『トニー滝谷』 原作・村上春樹

ブリックレーンにあった小さな映画屋さんでふと目についたのがこの映画だった。店主はいろいろと自分の関わっている映画関係の出版などの説明をしたあと、ふとこの映画を手にとった私にやはり声をかけた。「ああ、もうそれ最高だよね。原作がまずいいんだろうけど映画もいいよね。」そこで私は答える。「そうだね、原作がまずいいもんね~。」原作を読んだことないのだけど。なぜそこで私が原作を読んでいることにしなければならなかったのか、いや、読んでいることにしたかったのか。また店主がなぜ私が原作を読んでいることを前提にしたのか。あとから考えたら、そこには何か複雑だがとても単純な力が働いているように思えた。村上春樹は世界的に認知された日本の作家である。そして私は日本人である。そういう、実は何のつながりもないようなセンテンスの間に、ちょっと卑しいというか、可愛らしいというか、他愛もない方程式が存在するようだ。

トニー滝谷。この映画をうまく言い表せない。好きな映画だ、とかろうじて言えるくらいで。孤独をこんなふうに映像化することができるのだな、と思う。空っぽになった部屋や、人物の余す偏った空白、サボテン、靴音。「自分に足りないものを埋めてくれる」、服を異常なまでに買い求める妻の残した、持ち主を失った服たち。しかしこの映画について何を考えるべきなのか。もの、記憶、愛、死、忘却、怖れ、美しさ・・・ほとんど完璧に仕上げられた美しいイメージと音楽が、それを考えることを妨げているような気さえする。何も言うべきことが見つからないのに、なんだか心にしんみり溶け込んでしまったような。


その他 グーグーだって猫である 卒業 

  1. 2009/06/04(木) 06:09:22|
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