DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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真理という名で呼ばれてきたものの正体を探っている。「正体」といってもその中身ではなく、真理という名で呼ばれてきたもの(あるいはそれを真理と呼び、求めるということ)が、たとえばひとりの人間の人生をどのように形作っていくかということを。ある友人は、真理は絶対にあると言う。でもわたしは、それが実際にあるのかないのかという問い自体がたぶん、どこへも行きつかないのを感じているのだと思う。それに、「真理があるかないかは誰にも分からない、ということは真理だ」といった文句も、なんだかもう何も言い当てていないように思う。物事はいつも、いろいろなレベルで歪められたり隠されたり、あるいは注目を集めなかったりしており、実際、「真理」とか「真実」と呼ばれているものは存在する。例えば、「地球は太陽のまわりをまわっているのであって、太陽が地球のまわりをまわっているのではない」。これは真実でない時代もあったが、今では真理であると言えるだろう。

でも例えば、何かについて真理を語るとき、「~は真理」だと言うことはできても、「真理はある」だとか「真理とは~」であるということはとても難しいか、それを確かめることができないか、そういう領域に入ってしまう。つまり、真理は主語になることができないのだ。それでも真理を主語に据えようとすると、それは直ちに信仰の領域に入ってしまうのではないかと思う。真理や神や崇高というきっと誰にも確かめることのできない空虚な主語は、ときに人をありもしない「外側」の世界へと誘う力がある。例えば完全無欠の美しさ、汚れのない清浄な世界、終末、パラダイス、歪みのない本当の価値、そういったものへ。私は「外側」に憧れることや、それらがあることや、真理への探究の道を否定したいわけではない。(そしてたぶん、無いものを無いと証明することはできない。)それにこの考えが、希望や信じることを否定するとも思っていない。ただ、あり得ない幸福とか命を賭けられる大義とか、絶対に揺るがない真理などに気をとられて現在を行き過ぎさせてしまうこと、そして現状に対する感覚を鈍らせてしまうことを避けたいのである。まやかしから逃れたいと望むあまりにまやかしに捉われる、またはまやかしであるかもしれないという疑いを抱いたまま、中毒症状のようにそれを追い求めてしまう、そのどちらも避けたいと思っているのである。

けれど「真理はあるのかないのか」とか「真理は主語になれない」とか、そんなことを考えていること自体がもう幻想なのかも知れないし、そうでないかも知れない。その問いについて問う問い自体が、間違っているかも知れないし、そうでないかも知れない。しかし、この問いとわたしの言葉とわたしはここにあるのだ。そして真理という名で呼ばれてきたものも、ある。それが「何か」私は知ることができない。でも何が真理を可能にしているのか、それを吟味することはできるかも知れない。そんな外堀を埋めるようなやり方はたぶん、誰かの目には無駄なことのように映るだろうし、実際無駄なことなのかもしれない。それでも私が考え続けているのは、やはり真理や哲学に対する疑いが、晴れないためなのだろう。
















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  1. 2009/08/14(金) 01:44:31|
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小さな頃は神様がいて

きっと、何かひとつの時代が私の中で終わったのだと思う。長い間振り返らずに、よく考え直したりもせずにたどってきた夢が叶ってしまったのだ。その後のことなんて考えたこともないし、たぶん考えることもできなかった。これが、と思いつつもなんとなくも正しく歩いてきたはずの、そして実際その軌跡が現実になったあと、なぜかふと立ち止まってしまう。犠牲にしてきたことなど何もない。後悔していることもない。でもなぜか、進めなくなる。5年後の自分も、10年後の自分も、ときに1年後の自分さえ想像できずにいる。

それでもやはり時は過ぎて、その間にたくさんのことが通り過ぎていき、また空っぽになるときが来るんだろう。何かが終われば、何かが新しくはじまる。終わりを認めたら、新しく始めなければならない。そんな簡単なことに気がつかずに、未来は既に惰性によって決められていて、なにもかも終わったような気がしていた。本を読んだり、学位のために何がしかの文章をしたためたり、研究を続けること以外に、私は自分の人生というものについて真剣に考えたことなんて実は一度もなかったのだろうと思う。客観的に何が楽しいのかとか、何が好きなのかとか、誰と一緒にいたいのかとか、自分にとって一番大切なことが何なのかとか、人に聞かれていつも答えに困るくらい、分かろうとしたこともなかったのだと思う。もしかしたら本当に好きなことしかやってこなかったから、本当に好きなことが何かなんて考えずにいられたのかも知れない。とにもかくにも、ある音楽や絵や映画や美しいものに夢中の人や、自分のスタイルみたいなものを知っている人をうらやましく思う。

20歳くらいのときに、これは自分が好きなものや誇れるものだと思っていたものたちの足元がぐらつきはじめたのを知っていたし、それで動揺していた時期もあった。良く言えば世界が広がっているというか、守備範囲が拡がっているというか、いろいろ許容できるようになったというか。でも一方で、絶対こうでないといけないとか、そういう執着心や信念が弱くなり、あきらめたり、どうでもよくなることも多くなった。「なんでもあり」。私は自分の意志である程度何か自分に関することを変えられるのを知っているのだけれど、面倒だったりなんとなく気がすすまなかったり、そしてそれ以前に何も確かなことがなさすぎて、自分を信じることも困難なため、何も生み出さないと分かっていてもなんとなくくすぶってしまう。

この世界の外側には何もない。たぶん。ユーミンのルージュの伝言に出てくるみたいな「小さいころ願いを叶えてくれた神様」は、本当にいなくなってしまった。次元を変えただけかもしれないし、私がはじめから誤解していたのかもしれない。でも夢も希望も、ユートピアも神様も、恋も空も、魔法がとけてしまったかのように以前と同じようには感じられない。この目の前にあるものがすべてだ。消費とか資本とか、本当の自分とか意味とか、そういう言葉では語れないくらい、目の前にあるもの以外に私たちの持てるものはない。ぜんぶ人間のこまごましたやり取りや一時的な感情で動いている世界。前世とかあの世とか夢の国とか、森羅万象を統べる何かがあるとしたら素敵だと思う。でも、それはとにかくないのだというところからどうやって始めたらいいのだろうか。

そんなこんなで、やはりたくさんの矛盾を抱えながら、私はわたしのいない未来をどうやって生きることができるだろうなんてことを考える。

















  1. 2009/08/13(木) 01:29:30|
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