DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

学ぶ時間はまだまだ残されている。それはとても幸せなことだと思った。

そしてそれに早く気づけたこと。それもとても感謝すべきことだと思った。


自分の心が混乱状態にあるのを、そういう年頃のせいにすることもできるし、資本主義のせいにすることもできるし、身近な誰かや出来事のせいにすることもできた。私は「終わり」を求めていたのだ。不安定な状態の終わり。変わることのない信念や、少なくとも私の生きている間は持ち続けそうな思想、そこに留まり続けるもの。そういうものに憧れ続けてきたし、それはこれからも変わることがないだろう。今ここにないものを求め続けてしまうこと、それこそがたぶん、自分が思う以上に、わたしの継続そのものなのだと思う。本当に欲しいものは、いつもまだこの世界に存在しない。なぜならそれはつねに終わることがないからだ。一見いつもそこに何か欲しいものがすでにあり、それを見つけたり味わったりしに行くように見える旅の道は、どこにも行き着くことがなく、だからどこへでも行くことができる。小さな目標や現実的なターゲットを定めることはできるが、行き着いたところに、もうすでに私の求めていたものはないのだ。この世界には、私の認識なんてまったく必要とせずに存在するものがもちろんたくさんあるが、私がそれを見つけるまでまったく存在しないものもそれと同じくらいたくさんある。そしてこの世の中には、自分では気がつけなかったようなことや、見過ごしてしまったり見ようともしていなかったことを、私に見せてくれる人々がいる。発達したネットワークとグローバルな消費社会の効用に毒気を当てられようが目を回そうが、渦巻くたくさんのものの中に、確かに希望はあるのだ。ものすごいスピードや憎らしいものや何だかよく分からないものや気持ちの悪いものに、辟易したり押しつぶされそうになったり打ちのめされたり疲れてしまったりすることがこれからもあるだろう。けれどそんな絶望をも、学ぶために私はこんなところまで来たのだ。そして、私の求めている終わりはまだまだ訪れないということを、実は確かめに来たのかもしれない。















スポンサーサイト
  1. 2009/10/09(金) 02:42:14|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

そう、そうして、そのうちに人生は終わってしまうだろう。

私も華やかな舞台装置の中で、役を演じきれられなくなっている。世の中には目を回すほどいろいろなものがあるのだけれど、胸が痛くなるほど心を掴まれるものや、長い間愛せるものや、いつもそばにあってほしいものは驚くほど少ない。たくさんのマイ・フェイバリットとか尊敬するアーティストとか、クール!と称賛できるもの、その人の人生を彩ったり楽しくしたり支えたりしたりしているだろうものをたくさん持っている人と比べて、自分をとてつもなく空っぽに思う。友人Tが言うように、何もかもが通り過ぎていくのが速すぎるのかもしれない。こじゃれたもの、かっこいいもの、マージナルなもの、新しいものを消費/消化していく。いわゆる古典と呼ばれているものしか読んだり見たり聴いたりしてこなかった私には、単に新たに生まれてくるものたちの中から、本当にいいと思うものを選びとって味わうという能力がまったく欠けているのだろう。何もかも、しばらく経ってとりあえず一通り批評がなされるのを待っているのかもしれない。良いとか悪いとかさんざん言われ尽くしてきた、そういうものを鑑賞し慣れてしまった私の感性は、目の前にあるものを良いとか悪いとか言うことに、それどころかそういうふうに感じることすらできなくなってしまっているのかもしれない。飼いならされた感性。そんなものを批判する立場にある自分自身が、もしかしたら一番の批判対象であるかもしれない。紋切型の趣味(taste)やスタイルを提供するのはテレビや映画や雑誌だけじゃない。本や学術誌や美術館のパンフレットの中に、そして教育というものの中に、すでに特定の美的判断が潜んでいる。親や自分のカルチュラルバックグラウンドから引き継いだ判断基準をある程度保持し続けることができたら、ある意味幸せなんじゃないだろうかと思う。自分が今まで築いてきた(と信じてきた)価値観が根底から危くなるのは、極端に言えば自分の存在を根底から信じられなくなるくらい危機的だ。

そういう意味では、「私」が危機的状況に追いやられるのはいわゆる巷に溢れる大量消費のための商品や大衆娯楽やプロパガンダや様々な言説によってではなくて、「趣味がいい(cool)」と称される研究者の仲間たちによってなのかもしれないということを最近思うようになった。実に範囲の狭い話であるが、私の属するカルチュラル・スタディーズには、やはりカルチュラル・スタディーズの研究者内では何がクールなのかという基準のようなものがあって、そのキーワードが例えば「ラディカル」というキーワードに集約され得るうちはいいものの、やはり多くの人が同じ作品を賞賛するとなると、次第にそれがカルチュラル・スタディーズ的tasteになっていくということはある。何がラディカルな態度なのか?何がラディカルな作品なのか?自分も往々にして何かしらの枠組みの中に捉われている(そして、それを意識してしている)のだから他人を批判するのは非常に困難だが、それでもやはり、その人の特定の言動、例えば条件反射的な反論や何かに対する即時の拒否(反応)から、ああこの人はこのような枠組みに捉われているのではないだろうかとか、こんな趣味なんじゃないだろうかとか推測するときがある。もちろんそれは表面的判断であって、アマゾンが自動的に関連した本を紹介してくれる機能のマネっこみたいなものだ。そしてそれを模倣している私の思考回路自体もたぶん何がしかの枠組みの中にあるのだからということを意識してしまうと、何事も自分に信頼が置けなくなる。あらゆる選択、あらゆる批判、あらゆる判断、果てはあらゆる出会いと別れについて、一切がどうにもこうにも落ち着かなくなってしまう。私が周囲や他人の影響を受けやすいと言えばそれまでだ。でも、純粋に他人の影響を受けているときは、自分と他人の生きている何か(「枠組み」でも「世界」でも)の違いについてなど考えたりしない。それはもっと意識できないレベルで、ひっそりと、知らない間に、しかし押し入るような力でやってくる。それに対して私がひそかに(時に本人の意思に反して)抵抗しているところの何か、素直に憧れたりかっこいいと感じたりすることのない何か、しかし趣味としてcoolなのだろう、またはこういうものに憧れる人が少なくとも私のまわりにはたくさんいるだろうと認識しているところの何ものかに対して、どういう態度をとったらいいのか分からない。つまるところそれらが嫌いなのだよと言ってしまえばそれまでなのだろうが、好きとか嫌いとかいう次元の問題ではないような気がする。良いとか悪いとかいう言葉でも語れないように思う。抽象的にすぎるが、「好き=良い」「嫌い=悪い」という図式ももはや成り立たないことがたくさんあるし、「自分と違う=変」というのもためらう。自分を中心からずらすような力が常に働いているのだ。不安定な状態から逃れようとして自分なりのスタイルとか趣味を探そうとするけれど、中心はまるで磁石のように、その縁で私をはじく。時が経てば、中心に居座れるようになるのだろうか。

とにかく知らない人やモノやことが多すぎて、ときどき疲れてしまう。素敵なものをたくさん知っている友人たちに対して、自分は何も知らないように思えてくる。まるで空っぽなのだ。彼らが紹介してくれる「有名な」(?)あるいは「最先端の」(?)キラキラしたものや切れ味の鋭いものに代えて、私が紹介できるものがない。もしかしたら、何かが「好き」というのは寝ても起きてもそのことを(自然に)考えてしまうようなポジティブで夢見るような感覚ではなくて、むしろ根気や努力でとにかくゴリゴリと続けていく行為の結果に言えることなのだろうかとか思ったりもする。たくさんの理論と倫理が行き交う中で、私は自分にとって何が正しいのか、何が心地いいのか、何が好きなのかなどについて答えを失っている。















  1. 2009/10/06(火) 08:02:58|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

私にとって認識は最大の敵なのかも知れない、ということにようやく気が付いた。うまくやればやろうとするほどうまくいかない。出来るはずだと思えば思うほど、何事も前に進まない。最近、空振りが続いている。何か意味のあることを言わなければと思うと、次の瞬間にはまるで空虚な言葉ばかり語っていることに気がつく。その意味のない響きを、どこかで聞いている私がいる。自分の口から出る言葉がそらぞらしく聞こえる恐怖が、日が沈むにつれて私を疲弊させていく。「もっともらしいこと」―私は一体、何を語ろうとしているのだろう。きっと、握りしめた砂のように、いろんなものが滑り落ちていく。かたや、私の体はこわばっていく。

信じること、軽やかに立ち直ること、あまり真剣に考えないようにすること、気楽でいることと、不審と、あきらめと、失望と破壊的な衝動のバランスがかろうじて私を支えている。世界もそんなふうになっているのだろうか。

私がいろいろなことを知らないという事実よりも、知っていて当然と思われている自分がなんだか窮屈だ。

思い通りにならないことが、思い通りにならないのがなんだかおかしくて笑える。泣いても、悲しんでも、悔しくても、理由が分からなくても、結局笑うしかない。そう、笑ってしまえばいいのだ。そのうちに、人生は終わってしまうだろう。
















  1. 2009/10/03(土) 09:28:07|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。