DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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映画『路上のソリスト』

神、音、光、雑踏、天才、芸術、救済、魂、空、暴力、狂気、貧困、排除、悪、死、地獄、約束の地、天国、悲しみ、希望、風、自由

人間と神と芸術、その関係を映画はこんなふうに描くのかと思った。たぶん『路上のソリスト』はロサンゼルスの明暗を描いたわけでも、病による天才チェリストの受難を描いたわけでも、それを救えると思った自分の浅はかさに気づいた人間の成長の物語を描いたわけでもない。もちろんそれらは骨格としてこの映画を支えているものだが、なによりも、これは「人間の力を超えた何か」―それが神と呼ばれようが、その他の名前で呼ばれようが―についての物語なのだ。もっと言えばたぶん、はるか昔から語り継がれてきた「崇高なるもの」の物語なのである。

映画中にはキリスト教的なモチーフが散りばめられている。Los Angels―天使の町ロサンゼルスで、LAタイムスのジャーナリストであるロペスは、路上に暮らすソリスト、ナサニエルと出会う。ナサニエルは昔ジュリアード音楽院に学んだが、統合失調症のためプロの音楽家になる道を閉ざされ、専門のチェロを所有することもなく、たった2本弦の残ったバイオリンで音楽を奏でていた。ロペスはナサニエルの人生をコラムのネタにすることにしたのだが、そのコラムを読んだ一人の読者からチェロが届けられる。「ギフト」として。空もろくに見えない高架下の路肩で、ナサニエルはチェロを弾く。その音は天に向かって奏でられる賛歌のようだ。

ロペスがナサニエルの演奏に聴き入っているときのシーンでは、暗い道路を抜け出して大空に飛んで行く鳥が描かれるのだが、それはまさに地と天を結ぶ音の象徴に他ならない。車が高速で走り抜ける騒音の地上にいる二人の魂が、天をめがけて上昇していく。それは人間が芸術によって自由になる瞬間。ナサニエルとはヘブライ語で「神の賜物」を意味する。彼は、地上に使わされた神の子なのである。

低いものと高いもの。地獄と天国。人間と神。いつの時代にも、これを統合するものは芸術であり続けた。人間と天の間には、どうやっても埋めることのできない溝がある。(と考えられてきた。)予め存在するかのように見えるその両極の間を埋めるのが芸術なのか、芸術が実はその二極の構造を支えているそのものなのかは知らない。しかし芸術は、たぶん人類の始まりと同じくらいの大昔から、人間と(または個人、個物と)天を結びつけるものとして機能してきた。天とか神という言葉がしっくりこなければ、人間の外側にあるもの、ひとりの人間の個体としての限界を超えているもの、概念、記憶などと言ってもいい。人間の一個の生や感覚を超えて存在するもの、すなわち崇高が、芸術の源泉であり、芸術の流出であり、また芸術そのものであった。魂が求める美とは必ずしも一致しない現実、いやむしろ永遠に一致することのない、地上の現実を生きる引き裂かれた魂を救済する芸術。この映画においても、このような芸術に対する観念が貫かれている。

ナサニエルの音楽は祈りである。ロサンゼルスという、経済格差、犯罪や公害などの様々な社会問題が渦巻く街の雑踏に抱かれるように、ナサニエルは祈りを捧げる。ホームレスや麻薬中毒者、精神障害を持つ人々でごった返すスラム化した地域―ソーシャルサービスの建物の中庭でナサニエルが演奏すると、誰もが普段とはまったく違う表情を見せる。いっときの心の平安を得て、彼と祈りを共有しているかのようだ。(ナサニエルが幼いときの回想シーンで母親が彼の音楽を聴いているとき"I hear the voice of God coming..."と言って、寝たふりをしていたナサニエルが思わず吹き出すシーンがあるのだが、例えばいったい私たちの誰が、それが神の声でないと言えるだろう。)彼らは皆、安息の家を持たない。ロペスがcolonies of helpless soulsと描写した人々を見下ろす建物のひとつのネオンサインが、"The wage of sin is death"と光っている。彼らの罪とは何だろう?彼らが死とひきかえに犯す罪とは誰のものなのか?飢え、喉の渇き、受難する天使たち。天使の街、ロサンゼルスの底で。

ロペスは次第に、ナサニエルを救いたいと思うようになっていく。いや、救わなければならないという使命めいたものが彼の中に根付いていく。ロペスはなんとかしてナサニエルにチェロのレッスンを受けさせようとし、リサイタルで演奏させようとし、路上から離れてアパートに暮らさせようとする。しかしナサニエルにとって、アパートは閉ざされた場所であり("rock from the world)"、いつ誰が入ってきて殺されるかわからない危険な場所である。彼にとって外(outside, road)は、内inside, apartment)より安全なのだ。誰の家かは別として、常に個人化され安全であるはずのInsideが、所有されたInsideというスペースが、逆に危険なものになっているということ。その根源は、OutsiderであるよりもむしろInsiderにあること。ロペスは結局、ナサニエルを救えると自分に期待をしていたことに気がついて、しかし自分の無力さに打ちのめされる。

ロペスは数年前に大地震が会ったときも、誰かを救えると思った。でも、彼の妻が言うように、彼は決して地震を止めることはできなかったし、ナサニエルを治療することもできないのだ。ロペスはその地震について、息子に「これはいい予兆(Omen)だ」と言ったという。来るべき、new life, better likeへの予兆。彼は何かが変わるかもしれない、ロサンゼルスがもっとマシな場所になるかもしれないと思っていたが、実際は、何も変わらなかった。地震などの自然災害に際して旧体制の崩壊や新しい世界の到来を期待する精神はたぶん世界中にあるが、ロペスもそれを信じる人のひとりであった。しかし彼の待ち望んでいるような救済は訪れず、ナサニエルを自分の信じるやり方で救うことはできない。地震も、ナサニエルも、ロペスの、いや、人間の力の及ぶ範囲にはないのだ。人の力ではどうにもできないものがこの世界にはある。

ロペスはナサニエルが音楽によって高みに達するのを感受し、彼もそれを経験する。しかしロペスはナサニエルをコントロールすることはできないし、まして一体化することはできない。路上のソリストはThe Soloist=「ひとり」であり、ひとつの魂である。ナサニエルだけではない。特別な音楽的才能を与えられていなくとも、きっとひとはみなソリストであり、しかもそのようなかたちで世界に開かれているべきなのだ。安穏とした生活を送っている私でさえ、雑踏の中に音や光を求めるときがある。自由や希望に支えられ、美しいものに満たされたいという欲求がある。求めるのはやはり救いであり、それは雑踏の中に消え入らんばかりの神の声かもしれない。しかしそれを高みに求めることはできない。訪れるべくもない救済のサインは路上に、日々の雑踏の中にこそあるはずだからだ。

それにしても、時々あらわれる鳥瞰図的な俯瞰と地上の対置やその視点の往来は印象的だったし、ナサニエルとロペスがホールでオーケストラの演奏を聴いたときのイメージはすごいと思った。光の点滅。光の流れ。音が光になる。光は音である。目をつぶって音楽をきいたとき、私の目の前にあらわれる何か光のようなものと、極めて近いものが画面に映し出されたから思わず目を疑った。それはさながらヘッセの『ガラス玉演戯』を読んだ時にもあらわれるものとも似ている。


映画の最後、ロペスの台詞:

I learned the dignity of being loyal to something you believe in, of holding onto it, above all else, of being without question, that it will carry you home

somethingとは一体何なのか、homeとは一体どこなのか。キリスト教のモチーフが映画全体を貫いていたために、something=神という思いが私の頭から離れないのだが、現代社会において、もしかしたらそれはsomethingとしか言えないようなものであるのかも知れない。神は死んだのではない、たぶんもとから存在しないのだから。そして存在しないということを証明できないことが、彼の存在を証明するのだ。















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  1. 2009/11/16(月) 20:24:35|
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映画 『プラットフォーム』 by Jia Zhangke

プラットフォームとは、どんな場所だろう。例えば東京。人ごみで溢れかえるところ。ひっきりなしに発着する電車を待つ場所。しかし少し中心部を少し離れれば、深夜には誰もいない。人は行ったり来たりする。どこかへ向かうために、そしてどこかへ帰るために、プラットフォームに立つ。

『プラットフォーム』は79年から89年までの文化大革命後の中国を映す。しかし舞台は改革の中心地ではなく、北の内陸地(山西省)に位置する小さなまち、フェンヤン(汾陽)だ。幼馴染として育ち、地元の小さな劇団に属する4人の若者が、10年の間にいろいろな変化を体験する。音楽、ファッション、自由度の増した娯楽、電気、新しい政策・・・彼らは経済的にも文化的にも激動の時代を生きる。南から吹いてくる風に翻弄されながら。これは変化の周縁にいた人々の物語だ。地方にいて、まさしく遅れてくる「余波」を受けながらひとつの時代を生きた人々の、そして実際はプラットフォームにも鉄道にも馴染みがなく、しかし何かを待ち続けていた人々の物語である。

鉄道もプラットフォームも、未来のものであった時代。彼らはプラットフォームに立ったこともなければ、汽車を見たこともない。映画の最初は、真っ暗なキャラバンの中で聞いたこともない汽車の音を真似るシーンからはじまる。そして長い地方巡業に出た劇団員たちが、荒野で汽車の音を聞きつけて橋の上まで崖を駆け上っていくシーンが半ばにある。鉄道は新しいテクノロジーであり、それは今まで不可能だったような場所に、不可能だったような時間でもって走っていく。たぶん鉄道が自由という希望と結びついていた時代が確かにあっただろう。

4人の若者のうちの1人は故郷に戻り、地方巡業に出た3人のうちのカップルの会話で、故郷には戻りたくないという会話が出てくる。彼らは不慮の妊娠と中絶を体験して、彼女のほうはその後行方をくらましてしまうし彼のほうはロックミュージシャンのようないでたちになっていくのだが、(そして劇団自体も自称「ロックバンド」になっていく」)、自由という言葉が急に目の前に開けてきた時代に青春を過ごすということは、どんなに不安定なことだろうか。この若者4人にかかわらず、スクリーンに映し出される男たちは本当に頼りなくてふらふらしている。地方の雇用状況の惨憺たる経済的影響に加えて、倫理・道徳的にも、今までの暮らしから大幅な変更を余儀なくされつつある家族の肖像は見ていて切ない。予備知識がないからよく分からないシーンがたくさんあったけれど、たぶん男と女の関係さえ、永遠に変わらない部分と経済的要因に奇妙に左右される部分があるということを現実的に描き出していたと思う。ただのラブストーリーとして見てしまうと粗筋は30秒で語れるほどのものだが、それが2時間半という長さで語られていることを考慮しなければならない。

その2時間半の中で、主人公たちの置かれる状況は変化していき、何にも増してポップやロックなどの音楽がその変化に寄り添う。台湾や香港から流れてくる文化、都会と田舎、古いものと新しいもの。そういう濁流のような勢いに飲まれながら彼らはさまようのだが、地方巡業に出ていた主人公は10年のときを経てフェンヤンに帰り、地元に残ることを決めて徴税官の仕事についていた幼馴染の女性と結婚する。この少女の存在は他の3人の10年間に一度も顔を出さないのだが、映し出されていない彼女の10年間を、たばこの吸い方が埋めていた。いたずらな、ぎこちない少年と少女の恋に不器用だった彼女も、そして彼も、子を持ち、彼女が赤ちゃんをあやしながらヤカンの湯を沸かしているところで映画は終わる。ボーっというヤカンの音が、汽笛の音と符号する。彼らはきっと、プラットフォームに立ったのだろう。想像の中にしか存在しないところ、しかし確かに未来と分かち難く結びついているひとつのしるしであった、その場所に。

彼らは果たして戻ってきたのだろうか、それとも出発するところなのだろうか。暗闇の中で汽笛をききながら、そんなことを思った。

















  1. 2009/11/10(火) 10:15:13|
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