DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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Ana mendieta @ Alison Jacques Gallery, 19 Feb - 20 Mar 2010

血、羽、土、花、水、石、火、草、女。

Ana Mendieta(1948-1985)のパフォーマンスアートの展示が開かれている。
http://www.alisonjacquesgallery.com/


Ana Mendieta



あまりにも早く死んだ、ひとつの波動。でもなんだか、彼女の作品を見ていると、ある日彼女がこの世から姿を消したということも、すでにそこにあったように感じられる。どこかに消え入った彼女のたましいが、なんの不思議もなく、流れつづけているような。

旧式の小さなテレビをとおして見る、彼女の作品のひとつ。荒い土の中に、白い人型が横たわっている。埋葬されたのか、それとも土に喰い込んだのだろうか。下腹部から発した炎が、次第に胸や肩、つま先や頭にまで広がり、土に、還っていく。燃やされた人体?拷問?火葬?証拠隠滅?弔い?大地への帰還?音も立てずに赤々と燃える炎は、異様に美しかった。私はその「何か」が燃え尽きるまで、「何か」の儀式に立ち会っているような、神妙な思いでそこに立ちつくしていた。なぜひとは、炎を囲んだり、見つめたり、燃やしたりするのだろう。最も古い道具、人間の生活のはじまり、悲惨な過去、命の灯。いろいろなことがあたまをよぎった。それは、信じられないほど敬虔な時間だった。







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  1. 2010/02/20(土) 01:15:39|
  2. アート
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『その時歴史が動いた』 長谷川平蔵

なぜ、人からよく占い師になったらとすすめられるのだろう。そんなことを考える午後。


冬休みで日本に帰ったとき、兄から「なんでそんなに日本のドラマとかお笑い知ってるん?」と聞かれたのだけど、答えはひとつしかなくて、要するにこちらでもネットで日本のテレビを見ているからだ。日本にいるときはほとんどテレビを見ないから、たぶんロンドンにいるときのほうがものすごくいろんな番組を見ている。見るのは主に食事のときと、ぼーっとしたいとき。3年ほど前は「え?youtubeって何?」状態だったが、最近は新設され続ける動画サイトにも詳しい。近頃では、ひとつひとつのサイトで個別に探すよりも、まずgoogle動画で検索をかけるのがいいと分かった。

それで今日のお昼、ふと思いついて「その時、歴史が動いた」の動画を検索して見つけたのが、「鬼平犯科帳」のモデルとなった長谷川平蔵の「人足寄場」の話、『江戸時代のニート対策』である。→(http://video.google.com/videoplay?docid=-7868797137725589041&ei=Hu57S83bLdCr-Abk85zABw&q=%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%8C&hl=ja#)。彼が活躍したのはちょうど天明の大飢饉の時代。近世日本おける最大の飢饉で、90から130万人もの人々が命を落としたと言われる。1738年の浅間山の噴火とそれに次ぐ冷害により、地元農村ではもはや生き延びられなくなった人々の欠落(「かけおち」:行方知れずとなり戸籍から除外されて「無宿人」となること)が相次ぎ、江戸に流出した無宿人による犯罪が頻発した。強奪、窃盗、人殺しなど、どどまることを知らない犯罪の増加に対して、江戸の町の治安奪還を託されたのが、火付盗賊改に任命された長谷川平蔵である。

世の中には立派な人間がいるものだ。江戸にはびこる犯罪をくい止めるため、日夜悪人の取り締まりにあたっていた長谷川平蔵は、次第に、町にあふれる無宿人たちを社会の犠牲者とみなすようになっていく。もとを正さなければ犯罪が減ることはない。そう思った平蔵は、時の老中松平定信のもと、「人足寄場(にんそくよせば)」という無宿人のための授産・更生施設を開設する。大工・紙すきなどの技術を身につけさせ、職を斡旋することで、社会の底辺まで落ちた人々に生活を取り戻そうとしたのである。人足寄場の設立は江戸の犯罪縮小に大きく貢献し、地方での同様の試みの手本ともなって、ついに幕末まで続いた。

フリーターやニートなどという言葉が頻繁にささやかれる今、社会はどう変わっていくべきなのだろう。それをすごく考えさせられる。印象的だったのは、技術だけを身につけさせるだけではいけないと、「心学」と呼ばれる道徳学の学者が呼ばれ、人足寄場の無宿人たちに労働倫理などの講義がなされていたこと。長い間物乞いや窃盗を繰り返してきた無宿人たちにとって、働くという行為・心理そのものが彼らの生活から欠落していたのである。そして、その当時定信に仕えていた旗本たちにはたぶん、なぜ無宿人という「現象」が起きるのか、その理由が想像もつかなかったのではないかということ。私は地下鉄をよく利用するため、ロンドンの地下鉄の駅でよくホームレスを見る。そのわきでBig Issueを売っている人も見る― 一時「個人の責任」や「労働意欲」などと、無職であることや生活保護を受けなければならない状況を、個人の能力ややる気の問題に帰する論調が高まったが(今でもそうである)、私たちはあまりにも、わたしたちの周りにいる「不可解な存在」に対して、理解が浅いのではないだろうか。人間ひとりができることなんてたかが知れている。(現代の失業問題に興味のある方は、ジョック・ヤング著『排除型社会――後期近代における犯罪・雇用・差異』のご一読をおすすめすする)

しん、と静まりかえった江戸の闇に、長谷川平蔵は何を見ていただろう。彼はおそらく、人間の暗い部分をいやというほど目の当たりにしていたはずである。彼が、同じ人間として生まれてきながら、なすすべもなく社会の底辺に落ちてしまった人間に祈ること。それは彼らが再び光を取り戻すことだったに違いない。そしてそれは、人間のつながりというものを知る者にしか感じることのできない、かすかな光であっただろう。






  1. 2010/02/17(水) 23:50:41|
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姫はいばらに守られて眠っていればいいのである

河合隼雄の『昔話の深層ーユング心理学とグリム童話』を読んだ。深イイ話なんてなんと浅い!と思うくらい深い、昔話のはなし。昔話や民話はときにグロくて、不可解で、強くて、やさしい。常識を超え、胸に迫ってくるもの。どの章でもなめらかで素晴らしいことばの運びで、含意のある鋭いセンテンスがちょいちょいっと散りばめられているが、ロマンティックかつ力強くて秀逸なのが第六章・思春期になにが起きるか―いばら姫(眠れる森の美女)である。

この著作全体を通して、社会の一員として人間として、「大人」になるために不可欠な(通過)儀礼がどのように昔話や民話の中で扱われているかが語られているのだが、いばら姫は少女が女性になるまでの精神的・心理的成長の過程を、呪い・運命・100年の眠り・目覚めなどといったモチーフでもって描き出しているという。いばら姫の物語および詳細な分析に関してはぜひこの章全体を読んでほしいのだが、特に私がはっとさせられたのは最後の「『時』は満ちる!」のパートである。

河合隼雄はここで、昔ばなしにあらわれる「時」の流れの重要性の強調に言及し、それまで進路を閉ざし、城に眠る姫を堅く守っていたいばらがひとりでに分かれ、王子が目覚めのキスを姫に与えた場面に関して、

「グリム童話では、王子をはじめて見た姫は初対面にもかかわらず、『しんからなつかしそうに王子さまをみつめた』と書かれている。これがペローの話では、もっと劇的となり、目を覚ました姫は、『あなたでしたの?王子さま、ずいぶんお待ちしましたわ』となつかしそうに声をかける。初対面の人に確信をもって、「あなたでしたの」と言うためには、百年を待つ間に成熟した知恵と、カイロスを必要とする。このように考えると、百年という表現も、計測し得るものとしてのクロノスとしての百年ではなく、カイロスの到るのを待つ内容的な長さの表現であることが明らかであろう」

と述べる。これを読んだ瞬間、ふと、私がずっと前にアーティストの友達に疑問に思っていたことをきいたときのことが思い出された。その質問は「その作品にふさわしい材料を選ぶときやふさわしい形をつくるとき、また、その作品が完成したときそれがちょうどいいとどうして分かるのか」だった。対する答えは、「ただそれに出会ったときは、それと分かる」というものだったのだが、そのときはそんなものかあと思っただけだった。しかし、いばら姫が百年眠っていたにもかかわらず王子がその人であることを即座に知った、というこの記述を読んで、そうか、それはそれをちょうどいいと感じるための充分な心理的時間、カイロスを経たからなのだなと思った。先立つモデルがない作品をゼロから作り出そうとしている芸術家が一度も出会ったことのないものを「それ」と知るには、成熟した知恵と直観、そしてそれを満ちさせる「時」が必要であるだろう。

20代も半ばになると、ものにはそれぞれ適した時分があることが分かってくる。10代の頃にその真の意味を知ることも、深いところでの影響を考えることもなく、まるで青いりんごをかじるかのように背伸びをしていたようなことが、それはそれでよかったとしても、やはり顧みると機が熟していなかったと感じるようになる。特に10代後半ではどれをとってみてもほとんどがそんなふうなのだが、恋愛に関してはことさらである。いばら姫を無理に眠りから覚まそうとした王子は傷つき、さらに死に追いやられ、いばら姫がみずから眠りを破って城の外に出ようとすれば、彼女は彼女自身を傷つけるであろう。「それ」とわかる王子によって目を覚ますまでの100年のあいだ、姫はいばらに守られて眠っていなければならないのである。

「眠り」が何をさすかはたぶん、人それぞれだろう。しかしともかく、姫はいばらに守られて眠っていればいいのである。いばら姫にはもちろんそんなことはできなかったろうが、現代の姫たちは、いばらを自らの力でこじ開けたり、まどろみから目覚めることを急いではいけない。もちろん、眠っている間に時が立ち過ぎてしまったというようなこともあるかもしれない。しかし、それでもやはり時が「満ちるのを待た」なければならない。ちょっとやそっと、ちらりと薄目で見たところにハリボテの王子がいたところで、いばらに守られて眠っていればいいのである!








  1. 2010/02/12(金) 09:54:01|
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冬休みの読書

冬休みという言葉を口にするのももうはばかられるくらい時のたつのは早いもので、1月もあっという間に終わってしまった。気がついたらもう2月も半ばにさしかかろうとしている。一日が終わるのって本当に早いなあと思う。

ところで、冬休み日本にいる間に読んだ本の中から、とくに面白かったものをここに書いておこうと思う。読んだというかチェックしたというか、斜め読みが多くなってしまっているこの頃では、自分に必要な情報のみを引き出して終わりにしてしまうことがほとんどだ。小説も、詩も、本当に読むにはそれ相応の時間というものが必要だ。いろいろな読書の形態があるにはあるけれど、本当に本を読むということは稀になっている。私の中では、時間のたつのも忘れて、反論するのも忘れて、いちページいちページをめくりながら、活字と自分をリンクさせること。それが本当に本を読むということなのだ。

さてそれでは簡単に。要約は苦手なのでスキップしてしまう。

まず『詩のこころを読む』/茨木のり子  

言葉が輝きすぎて作者の名前よりその詩のほうが強烈に心に残っているということがある。恥ずかしながら、茨木のり子もそういう詩人のひとりだった。つい最近、友人がフェイスブックで「自分の感受性くらい」という詩を教えてくれたときも、彼女の名前よりもそのことばがいつまでも思い出された。詩集を読んでみると本当に知っている詩が多いのだが、やはり詩人の紡ぐ言葉というのはすごくて、作者の名前よりも詩の響きとかことばの強さが心に残っているということは私でなくてもありそうではないかと思う。

『詩のこころを読む』では、茨木のり子の人生に寄り添ってきたであろうと思われる詩たちが、彼女の鋭い感受性でもって紹介されている。詩というものにひかれながら、どうしてひかれているのかとか、その詩がどんなイメージを喚起するのかとか、何か言葉でうまく説明できないようなものだとずっと思っていたのだけれど、彼女のことばにかかるとまるで「そう、それだった!」と言いたくなるような的確さでもって、いくつもの詩がもう一度心にせまってくる。なぜこの本と今まで出会わなかったのか不思議になるくらい、せめて高校生のときに読んでいたかったと思う。ぜひ全国の中高生向の推薦図書にしてもらいたい。

詩を読むには、いろんな意味で時間がかかる。たった何行かで綴られたことばを心底味わうことができるようになるまでに、人はどれだけの時間を必要とするだろう。何かを「わかった」と言えるようになるには、常に謙虚でいなければならないと改めて思った。いわんや人の心に残るようなことばを生みだすをや。


2冊目は『サブリミナル・マインド』/下條 信輔

茂木健一郎?のメディア露出で一躍公共的興味を獲得したかに見える脳科学。それに認知・行動・神経科学。錯視や倫理の問題も活発に議論されていて、脳科学に関する著作もおびたただしいけど、ちょっとブームに遅れて興味を持ち始めたわたし。他にもいろいろ読んでみたけど、これは本当に内容のつまった重い文庫本という感じだった。究極的なクエスチョンはつまるところ、「人間とは何か」ということだ。感情、思い込み、自分の意思で選んでいると思っていること、それとはうらはらに無意識の深層に働きかけてくる情報の多いこと・・・

自分の持っている価値観や世界観を変えるのは、いつも哲学だと思っていた。数学苦手だし、「無限」とかゼロとかの概念には興味があっても、科学とかダーウィニズムとか、よくわからないと思っていた。でもそうか、科学も私の見ている世界をがらっと変えるんだなあと、そういうめまいみたいなパンチがあるものなんだなあとはじめて真面目に思った本。


そして最後に、『神話の力』/Joseph Campbell

残念ながら時間がなくて最後まで読めなかったから、今度帰ったらぜったい続き読もう!本。神話学者のジョセフ・キャンベルとビル・モイヤーズ(ジャーナリスト?)の対話/インタビュー形式になっている。たまに、この人はもしかしたら神様と話をしたことがあるのかもしれないと思う。物語の原型、それぞれヴァリエーションは違っていても共通して底に流れている通低音のようなもの。しきりに、河合隼雄がどこかで「にんげんの世界の源流には、かなしみが流れている」といったようなことを言っていたのを思い出していた。ものすごいスピードで進化しているように見える世界の中で、繰り返されてきた人間の物語がある。人は変わっても、繰り返されるストーリー。同じ悲しみ、同じ喜び、同じ悩み、同じたましいの経験。現代の私たちがしていることも、大きなスケールで見てみると神話に書かれていることとそんなに変わらない。

めっぽう歴史に弱くて、どこがどうなってこうなったのかよくつかめていない私も、現代のセレブリティ(歌手・役者、スポーツ選手)とシャーマンとか、クラブとか、ダンスとか、男女の役割とか、不条理な出来事とか、その他もにゃもにゃしたもの、そういうものを焦点をちょっとずらして見てみると、すごく大きな流れの中にいるのを感じられる。哲学者は哲学者で、ジャーナリストはジャーナリストで、占い師は占い師で、科学者は科学者で、芸術家は芸術家なのだ。




  1. 2010/02/10(水) 03:43:04|
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