DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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メモ

―「運」が良いとか悪いとか、ツキを呼び込むとか何とか言うけれど、それが最近、前にイメージしていたものとは全然性格の違うものなんじゃないかと思うようになった。それは実感としては「なんだかラッキー」なものかもしれないが、結局はある特定の行為や心情に対するリターンなのではないかと思う。その因果関係がはっきりと特定できないために、「とりあえずこうしたら運が良くなる!(かもしれない)」とか、その人の意思や努力とは関係ないとかいう話が出てくるのだろう。確かに個人の意思や努力と、その個人につく運は関係ないのかもしれない。ではなぜ、運を良くするとかしないとかいう話になるのだろうね。「あの人はたいした努力もしてないのに運がいい」とか。「運」とは世の中のどうしようもない不平等とか偶然性とか、不条理な出来事に折り合いをつけるためのアイディアなのか。

―男の女に対する「結局女にはかなわない」という言葉。それである程度のやんちゃやかっこつけは許容してしまえるように差し向けられる。ひねくれていると言われればそれまでだが、実際そういう口止め的なプレッシャーを感じている人はどれくらいいるだろう。賞賛はときに抑圧する力として働く。人は褒められると、けっこう何も言えなくなったりする。

―自分についての一貫性なんて意識して保つほどのものではないと思ってきたけれど、最近はどれが本当の自分でどれがニセモノということもないのだと思うようになった。「私」はわたしが思っているほど自らの意志の力によって支えられているわけではない。文脈によって、ころころ変わる。それでいい。ただ、すっぴんの自分というのはあって、それにどの程度近いか遠いかということはある。でも、だからといって他人の前で繕っている自分が「ニセモノ」であるということはないと思うし、常にホンモノの自分でいなければならないというのも、うさんくさいと思う。

―「そうは言っても・・・」ということばが理解できるほど年をとってしまったことに、少し悲しくなる。人の生は複雑だ。単純明快に見えるような私の人生においても、周囲はいつもそれなりに騒がしい。たぶんそう、思っていてもできないことはあるだろう。でも、大嫌いだったその言葉をきいても、「ああ、そうだねそんなこともあるよね、仕方ないよね」と言えるようになった自分に、若干のやさしさと若干の嫌悪感を覚える。「そうは言っても、にんげんだから・・・。」それがほんとうなら、私は人間でなくていい。そんな人間になりたくない。本気でそう思っていたのは、ついぞ3年ほど前のことである。このあきらめと正当化、そしてほんのわずかな暖かさと希望をたずさえたこの言葉を、自分に対しても口にする日がいつか来るのだろうか。

―なんと言われようと小難しいことを書き続ける!












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  1. 2010/07/28(水) 23:34:58|
  2. メモ
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中島義道 『哲学の教科書』

哲学が何なのか分からなくなって、助けを求めて読んだ。だって『哲学の教科書』だもの。何か教えてくれるにちがいない。と思ったけど、まあやっぱり基本はよく分からなくて、でもそれなりに安心できる答えも与えてくれた。しかし、付箋したところを読み返すと、「あれ、そんなに大したことじゃないかもなあ」とか思ってしまうのが不思議だ。教科書と銘打つにはたぶん、だいぶ偏っているような気がする。語られるテーマは主に「死、時間、存在、自己と他者、因果関係、意思、意味、言語・・・」と網羅しているのだが。特に前半の「哲学とは何でないか」は、どういうわけかつまらなくて睡魔と格闘しながら読んだ。

哲学とは何であるか、著者曰く、それは「『死』を宇宙論的な背景において見つめることによって、この小さな地球上のそのまた小さな人間社会のみみっちい価値観の外に出る道を教えてくれます。そして、それは同時に本当の意味で私が自由になる道であり、不思議なことに自分自身に還る道なのです」(242)。「みみっちい」とはよく言ったものだね。

同意したメッセージとしては、哲学は技術的に役に立たない(というか何の役にも立たないかもしれない)、哲学は一種の病気である、哲学への不信に動揺する必要はない、屁理屈で何が悪い、しかしなんとなしに感じる哲学することの気恥ずかしさとうしろめたさ、職業哲学者になるにはやっぱり大学で教職に就くしかない・・・など。


巻末に紹介されている「哲学入門」入門書とそのた参考読書をメモっておく

大森荘蔵 『流れとよどみ』
左近司祥子 『「本当に生きる」ために』
西尾幹二 『ニーチェとの対話』
長井均 『<私>のメタフィジックス』
中島義道 『カントの人間学』

プラトン 『パイドン』
デカルト 『方法序説』
パスカル 『パンセ』
マルコム 『ヴィトゲンシュタイン』
ネーゲル 『コウモリであるとはどのようなことか』

別冊宝島 『現代思想・入門』
丸山高司・編 『現代哲学を学ぶ人のために』
飯田隆 『言語哲学大全』I~Ⅲ
岩波講座 『現代思想』全16巻
シュテーク=ミュラー 『現代哲学の主潮流』全5巻

神谷美恵子 『生きがいについて』
遠藤周作 『聖書のなかの女性たち』
三浦綾子 『生かされてある日々』
鈴木大拙 『禅問答と悟り』
高見順 『死の淵より』
小林秀雄 『モオツァルト』
トルストイ 『イワン・イリッチの死』
ジッド 『地の糧』
サルトル 『嘔吐』
カミュ 『異邦人』
カフカ 『日記』
ヘッセ 『クヌルプ』
ヘミングウェイ 『日はまた昇る』
トマス・マン 『トニオ・クレエゲル』
テネシー・ウィリアムズ 『ガラスの動物園』
キューブラー・ロス 『死ぬ瞬間』
カール・ベッカー 『死の体験』
加藤乙彦 『ある死刑囚との対話』
高氏明 『生きることの意味』
中島義道 『ウィーン愛憎』『戦う哲学者のウィーン愛憎』


「カルチュラル・スタディーズとは何か」なんて本を書くとしたらそれはもう研究者としてのキャリアの終わりだ。とうちの教授陣はみな苦笑いするが、どうなのかな。「~とは何か」っていう質問形態はとにかく、答えを出さないために問うような問いになってしまっていることが多いと思う。








  1. 2010/07/28(水) 22:55:33|
  2. 読書
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読書 その他

大石哲之 『3分でわかるロジカル・シンキングの基本』

・・・読むべきときがきていないらしい。面白くなくて最初の数ページで挫折。


山本良一 『世界を変えるお金の使い方』

これは読むというより、気づく本。自分よりも姪っ子や甥っ子に読んでほしい。例えば私たちが普段何気なく使っている100円で、援助を必要としてる国では何ができるのか。300円では、1000円では、10000円では?お金って、なんなんだろうなあ。


スタンレー・ミルグラム 『服従の心理』

人はいかなる状況で、何に従いどのように行動してしまうのか。著者のミルグラムはアイヒマン実験(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93)で著名な研究者その人である。様々な条件下における実験結果が記述されているのだが、私には細かく専門的すぎるので途中読み飛ばし。第一章服従のジレンマで面白いと思ったことが2つ。ひとつめは、著者がナチスの集団虐殺についてハンナ・アーレントが述べた「悪の陳腐さ」という発想は「想像もつかないほど真実に近いと結論せざるを得ない」と述べていること。ふたつめは、実験に際して、「多くの被験者は、被害者を害する行動をとった結果として、辛辣に被害者を貶めるようになっていた・・・いったんその被害者に害をなす行動をとってしまった被験者たちは、相手を無価値な人間と考え、罰が与えられたのは当人の知的・人格的欠陥のせいなのだと考えるしかなくなっていたのだった。」(23)という箇所。信じがたい暴力が、実際に人類の歴史上に体験されてしまった背景。「悪」とは、私たちが想像している邪悪で理解し難いようなものよりも、ずっと陳腐なものだということ。そして憎悪の情動と言説が、どのようにして生じるのか。人には手に入れられなかったものの価値を低く見積もったり、優位にたつものをけなしたりする心理的傾向がある。自分がはからずも与えてしまった害を正当化しようと、その原因を相手に求めてしまうことがある。「あいつは○○なんだから、そんなことをされても当然だ」・・・と。歴史的憎悪の起源は、いや、歴史的でなくても、憎悪という感情の起源は、一体どこにあるのだろう。イデオロギーと暴力、そして突発的な衝動。小さなきっかけが招く、想像もしなかったような結果。私は、知らないうちに何に服従しているのだろうか。そんなことを考えさせられて、恐ろしくなった。


石川実 『嫉妬と羨望の社会学』

なんだかどうも、社会心理学に興味があるらしい。冒頭は認知的不協和(cognitive dissonance)について。これは人がやりきれないというか、自分の中で納得できない認知を得てそれに不快感を持っている状態である。この不快感を解消するために、人は認知に修正を加えることで不協和を解消しようとする。例として有名なのはイソップの『すっぱいブドウ』である(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%E8%91%A1%E8%90%84)。(ちなみにwikiによるとsour grapesは「負け惜しみ」を意味するらしい)つまり、どうしても手に入れたいのに手に入らないものがあるとき、心の平静を得るためにその対象を見下したり、あまり価値のないものとすることで円滑にあきらめようという心理が働く。なんとも、「忘れる」機能同様、人間になくてはならない能力だと思うが、自身もいかに普段これのお世話になっているかと思うと、なんとなく悲しい感じがする。

「ま、いっか」とか「結果的にはこれでよかったのかもしれない」などど思えることは、生き延びていくうえで大変重要なことである。でなければ、人間関係において比較に次ぐ比較と劣等感によって疲弊してしまうだろう。学術書なので細かいところは略。社会的な「嫉妬」や「羨望」がどんな風に生じるのか、興味のある人は読んでみてほしい。自分の嫉妬心や羨望を理解したり手なづけたりするのには、あまりヒントがないかもしれない。

あまり嫉妬の話とは直結しないのだが、第3章「社会的交換概念の適用」の最後のほうに書かれてあったことが面白くて、曰く、「・・・社会的交換において、緊密な関係を維持するには、むしろ『等価性の微妙なずれがある』と両者に判断されるほうが望ましい。いいかえれば交換行動の反復的継続のためには、常にいずれかの側に”借りがある”または”借りが残っている”と判断されるほうが望ましい。この『等価性の微妙なずれ』がさらなる相互作用の動機づけとなるからである」(66)。これは『予想通りに不合理』の社会的価値と市場価値のセクションに書かれていたこととリンクすると思うのだが、要するに、社会的交換の輪を閉じないためには常にある程度の不均衡性を保っておく(交換されたものについて主観的不平等感を保っておく)ことが重要であって、天秤が釣り合った状態になってしまうともはやそこには流動性が生じないということである。そもそも、完全な等価交換なんてあるのかが疑問だが(経済的にしても社会的にしても)。このへんの社会的交換の例については、ぜひ浅田次郎の『プリズンホテル』なぞを読んでいただきたい。任侠の世界は、経済的交換の原理に即した社会では生き残れない。人間関係における「貸し」とか「借り」とか、「恩義」は経済的価値をはみ出すからである。

嫉妬は、人間にとって一番やっかいな感情のひとつであるかもしれない。しかし時にものすごいエネルギーを与えてくれるものだと思う。私たちが、現代のキツネになるか、たぬきになるか。そこのところは、新しい物語が書かるのを待ってジャッジすることにしよう。














  1. 2010/07/28(水) 18:12:30|
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五木寛之、香山リカ 『鬱の力』

「うつ」という言葉が日常でも頻繁に聞かれるようになったのは、いつの頃からだろうか。鬱病といえば何か暗い響きで、大変な精神病のように扱われていた時とは違う。最近では「プチうつ」などという言葉もあり、著者の香山リカによると、自分を鬱病だと信じて疑わない人や、むしろ鬱病と診断されたいという患者が増えてきているらしい。そんな状況に対し、本書は「鬱」と心療が必要な「うつ病」とは区別されるべきであり、鬱こそ「人間の優しさ・内面的豊かさの証」であり、戦後60年の「躁の時代」の終焉と、「一億総ウツ時代」の到来を予測する。五木さんによると、不合理・不確定な出来事への不安やエコロジーなどは「鬱の思想」である。自分の力だけではどうにもならないことがある。社会との、自然との、多様な人とのかかわりの中でなんとなく醸造されていく、無力感、あきらめの気持ち、なんだかよくわからないけど暗くなってしまうこと、確固たる基盤のない心細さ、出口の見えない不安・・・そういうところからくる「ウツ」を肯定的にとらえようという主張である。

後半部分ではうつな気分の由来が18世紀イギリスの「ノスタルジー」の流行に求められていたり、カスパー・ダービト・フリードリヒなどへの言及もあっていいと思ったが、全体的にはやや脈絡のない話の流れ。しかし人生は苦であるという出発点」という小見出しには「そうかー、そうだったな」と思わされた。

思春期のころから、「暗い」「冷たい」「覇気がない」「冷めている」と言われてきた(事実はともかくそう思われていた)私は、なぜ無理をして明るくしていなければならないのか、深い考えに沈んでいてはいけないのか、と疑問に思いつつ反抗していたものだ。今思えば、きゃぴきゃぴであるはずの女子中高生に対して大人がかける言葉としては、きわめてまっとうである。でも、わからなかった。なぜ自然を偽って、きゃぴきゃぴでなければいけないのかが。なぜ、妙に落ち着いていてはいけないのかが。若さとはただやみくもに、はしゃぎまわるためだけのものではない。(むしろ、歳はとったが今のほうがはしゃいでしまっている。)思い返せばあのころ、私は万年ウツだったし、そうでなければ大したことなんて考えられないと信じていた。しかし、「人生は基本的に苦しい」、そういう基本的な認識があったからこそ、危機的な状況でもなんとか耐えることができたし、次第にそれを楽しむことができるようになってきたのだと思う。でなければ、人の一生とは本当に、耐えがたいものだ。

ウツを許容したり、うまく付き合っていくことが重要になってきている。別にいつもいつも最高に明るくいなければならないなんてことはない。しかし、たぶん運は明るいところに集まるし、あんまりウツでいることに固執してしまって、いろいろなチャンスや本当に楽しいことをあえて見逃すのももったいない。要は、バランスか。

余談だが、この間飛行機で竹中直人の『僕らのワンダフル・デイズ』(映画)を見た。ウツというキーワードでふと思い出したので書いておくが、ほんと、ベタだけど笑えてしんみりできる映画だった。















  1. 2010/07/28(水) 13:33:45|
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―クイズ番組で珍回答を連発する芸能人をバカだなーと嘲笑って楽しんでいる視聴者は、一体どのくらいいるのだろうか。食事中考えてみたけど、よく分からない心理だ。ほんとのところ、そのエンターテイメントしているところのものは何なのか。何が面白いのか。個人的には、テストでの誤答とか珍回答とかは大好きだが、出される問題に出演者より早く答えたり、あまりにも常識的な知識がないことをいちいちやいのやいの言うのを聞いているのはなんだか心地よくない。


―お昼の時間帯のテレビ番組。ほんのわずかな情報を伝えるのに、いかに長い時間を費やしているかということに驚くほどあきれた。彼らの情報をひっぱるプレゼンテクニックはすごい。娯楽という誤楽。


―ふと、日本に帰ってくる飛行機で見た映画『インビクタス』の中に出てきた詩が気になって調べる。ちなみにInvictusとはラテン語で「不屈」の意。

 門がいかに狭かろうと It matters not how strait the gate,
 いかなる罰に苦しめられようと How charged with punishments the scroll,
 私が我が運命の支配者 I am the master of my fate,
 我が魂の指揮官  I am the captain of my soul.

作者はWilliam Earnest Henley。19世紀末のイギリス人作家だが、幼い頃から脊椎カリエス(マリー・アントワネットの第一王子、ルイ・ジョゼフも脊椎カリエスで亡くなったのよね。昨日また一気読みしてしまった『ベルサイユの薔薇』にあった)を患って片足を切断し、エジンバラの結核病棟の入院中にしたためたものらしい。正直言うと映画のほうはあんまりピンとこなくて、この第4節の最後の2行がすごく残った。何ものにも、誰にも服従しない魂。不屈の精神。どんな状況にあっても、自分が自分のコントローラーであるということ。それをひとは、自由と呼ぶのではないかと思う。








 



  1. 2010/07/27(火) 01:12:24|
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メモ

―プレゼンテーションが、へたくそ。だとつくづく思う。自分の中ではなんだかすでに伝わっている(はず、みたいな)気分になっていることが、実は伝わっていないことがよくある。しかもそれに気が付いてちゃんと反省できる場面が少ないから、なおさらひとりよがりになる。そして、言葉がこころを裏切ってしまう。しっかり伝えたわけでも、しっかりフィードバックをもらったわけでもないのに、いや、それだからこそ、自分の頭の中は検討はずれの推測や解釈でいっぱいになる。直観、経験、しかし、間違った回路。間違った表現。ふさわしくない言葉。真意とは裏腹の、ちぐはぐなコミュニケーション。もっと素直に、伝えられるように頑張ろう。

―「人間としてもっとも尊い生き方」は、何通りあるのだろう。

―実家で写真と手紙の整理をしたら、私は本当にたくさんの人に与えられてきたことを改めて知った。そのおかげで今のわたしがある。与えているその時には、与えていることを受け手には感じさせないような与え方。そういうことができる素晴らしい人間に、わたしもなりたい。

―身体が弱ると心も弱くなる。自分に極端に自信がなくなってしまうのは決まって、身体が弱いとき。








  1. 2010/07/25(日) 23:55:08|
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となりの・・・

今夜、金曜ロードショーで『となりのトトロ』見た。メイが半端なくかわいい。そしてやはりよくよく作られた映画だと思う。ジブリ作品で一番すきなのは『紅の豚』だが、トトロも見る度に新しい感動を与えてくれるような気がする。うまく言葉に言い表せないほど、些細なこと。でも、大切なこと。

夕暮れ。お母さんと、森と、言い尽くせない不安。何かを喪ってしまうかもしれない、どうしようもない心細さ。人間がついにはひとりであることの孤独や寂しさを一番感じていたのは、もしかしたら自覚するよりもずっとずっと早く、さつきくらいの歳だったのかもしれない。陽が沈んで、辺りが薄暗くなる。雨が降る。何かが見つからない。そこにさっきまでいたはずの、メイが。父が。母が。光が。

あの夕暮れの、なんとも言えないおそろしさ。薄暗闇に吸い込まれてしまいそうな自分。それを想い出して、さみしい気持ちになった。







  1. 2010/07/23(金) 23:13:05|
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屋久島に行ってきたー

19日から2泊3日で屋久島旅行に行ってきました!

『もののけ姫』の映画が公開されたのは1993年。珍しく母と一緒に観に行ったのだが、そのときから、なんとなく屋久島への憧れが芽生えていたのだろう。友達と、ほんとうになんとなく、行きたいね~とずっと言っていながら、なぜか旅が実現しなかった不思議な場所だった。今回、私より二足ほど早く社会人となった友人の休暇に合わせて、とうとう行ってきた。

誰か屋久島に行きたいと思っている人&将来行くかも知れない人&自分のために、tipsと印象に残ったことをメモしておきます。


<交通>
・私たちは羽田から鹿児島経由の乗り継ぎ便だったけど、大阪からはなんと屋久島に直行便が出ているらしい
・2人以上なら島内の交通はレンタカーを借りたほうが安い。(バス代が高い。一日券は2000円で空港のJALカウンターや島内の他の場所で買える。そしてバスは時間通りに来るけど、方向によっては1時間に一本。
・タクシーは何かイベントがあると出払ってしまって空港前にいないことがある。

<登山>
・レインウェアとトレッキングシューズはレンタルが楽。自前の厚めのスニーカーでいいかな~と思っていたけど、シューズ借りてよかったーと登ってる最中に心から思った。
・夏の登山は蒸し暑い。重装備の人が多かったけど、なるべく風通しの良い軽装になれる服装がいいと思う。
・驚くほど虫がいない。みんな雨で流されてしまうよう。
・タオルや着替えのTシャツは多めに持っていったほうがいい。

<その他>
・グリーンホテルは非常にアットホームできれい。景色もいい。食事もおいしかったー。目の前に頼りになる地元スーパーがあって便利。
・空港前のホテル「まんてん」は1500円で日帰り入浴できて便利。
・島内で貸出してもらえるオレンジ色の雨傘が2000本ある(空港では売店の横に置いてある)
・空港の食堂は最終便の出る前(17時半)に閉店してしまう。
・観光センター前にロッカーあり。ウラからちっちゃいアリが出てくるけど。
・屋久島には小学校が8つ、中学校が6つ、高校が1つある。
・島民はお墓参りにほとんど毎日行くらしい。それで花が新しくてきれい。
・ドラえもんとドラミちゃんが門の上に立ってるお家がある。野比さんの家かは未確認。


1日目

着いてからレンタル用品を借りに宮之浦へ。ホテルに着いたあと、海へ泳ぎにいく。しかしバスがないから、ホテルのママチャリを借りていくことに。フロントのお姉さんに30分以上かかってきついですよ~と脅されるがめげずに、白と黒のキーキーいう自転車でアップダウンの激しい坂道をゆく。暑い夏の日、自転車で友達と二人、海沿いの緑豊かな坂道を駆け下りる、なんて最高なんである。汗だくで海水浴場に着いて海で泳ぐ。(ちなみに春田浜は砂浜のない、けっこう小さなところ。)そして帰り道も自転車。まるでトライアスロン。明日縄文杉まで登るのに~!などと言いながら、結局行きも帰りも15分でいけた。まるで部活通いの高校生だ。


2日目

AM03:45に起きてホテルを04:50に出発。ガイドさんと一緒に屋久杉まで登る。ちなみに屋久杉というのは、杉の種類にかかわらず樹齢1000年以上のものを言うそうで、屋久島には2000本以上あると言われているそう。昭和期の森林伐採に使われたトロッコは今でも橋の修復のためなどに使われていて、その道をてくてく歩いていく。天気はありがたいことに晴れだー。おかげさまで暑い。途中に5分ほどの休憩をはさみながら、登ること5時間。トロッコ道のあとは岩と土の登山道をゆく。登るにつれて、三代杉、夫婦杉、ウィルソン株、大王杉、と立派な杉が増えてくる。あと、立派なヒメシャラや、他の大木も。屋久島にあるのは杉だけでない。植物の多様性が森を豊かにしている。屋久シカ(普通のシカより体が小さめ)ともちょくちょく遭遇。縄文杉は、デッキから眺めるようになっているので触れないのだけど、囲むと外周が大人12~3人だそう。とてつもない巨木だ。一節には樹齢7200年とも言われているけど、実際はわからなくて、炭素測定法では2170年前後らしい。それにしても、紀元前からそこにあった杉の木。気の遠くなるような時間をかけて、膨らんだ年輪。折れた枝。暴風に耐えた木肌。自然に対してロマンなど感じたことは滅多にないが、その生きてきた歴史を思ったらめまいがした。

と同時に、もしかしたらもう一生ここには来ないかもしれないなどと思った。登山、たいへん。まずトイレに行けるポイントが2カ所しかない。そして休憩とお弁当、縄文杉での時間を除いておよそ10時間半、歩きっぱなしである。でも不思議なもので、足元の一歩一歩だけに集中して登っていけば、遠い目的地にも着くんだなあと実感した。登山は人生に似ている。いや、人生が登山に似ているのかもしれない。前に進むことばかり考えて振り返らずにいると、見逃してしまう杉もあった。目的地を見据えるとなんかもうそれだけで疲れてしまうが、目の前の一歩を続けていけばたどり着ける。そして、整備された単調な階段は登りやすいが、余計疲れるし退屈だ。複雑な岩と土と木の根のからむところを、自分なりの足取りで踏みしめていくのが一番飽きなくて楽しい。途中で雨がパラついたり、日照ったり、暑くなったり寒くなったり。ひとりで登るより、ガイドや友達がいたほうがいい。なんだかそんなすべてが、人生に似ているのだ。帰りはひたすら降りて、スタート地点に戻ったのは4時半過ぎだった。足の裏が痛い。ホテルに帰ってシャワーを浴びて、ビールで乾杯して、初の岩盤浴して、部屋に戻ってぐーぐー寝た。


3日目

朝、やはり早起き。身体が筋肉痛でガニ股歩きになる。もののけ姫の森のモデルになった白谷雲水峡行きバスに乗る。普通のバスなのに、運転手さんのしゃべりっぱなしのガイド付きで山を登っていく。山の上から見える港がきれいだ。バスの中は異常にインターナショナル率が高くて、インド系の青年2人と東欧系?のカップルが同乗。こっちの森は縄文杉登山に比べたら楽で、すいすい登って降りてきた。2日目の登山で慣れたからかもしれない。原生林の苔むす木々の間に、本当にコダマが棲みついていそうな気がした。もののけ姫のイメージが強すぎたと思われるのだが、なんだか葉から滴り落ちるしずくの一滴に、はらりと落ちてきた木の葉に、森のメッセージを聞くような気がするのである。森は入り組んでいて、じっとりとして、どこまで続いているのか分からず、こもっている。何か知らないものが、奥に潜んでいそうな気がする。何かがこちらをじっと見ていそうな気もする。太古の人間が森と山に抱いた怖れや不思議、そういうものを少し肌で感じられたように思った。私たちはもうずっと昔に、森を出た。「森を出たサルはどこへ行くのか」?「自然と一体になって歩く」なんてよく分からない。そもそも、「自然と一体になる」ということがどういうことなのか、共に生き共に死ぬということがどういうことなのか、私にはわからない。ただ、この2足の下肢が、いかに山の複雑な地形を走り抜けるのに適していないか。それをひたすら、実感していた。

夕方6時の便で変える予定だったので、4時ごろ空港近くまで戻って、空港前の「まんてん」で温泉に入る。そこで、すべって壺風呂のふちにすねをぶつけて切った。なんというマヌケな怪我だろう。こういうことって、あるのね。ちょっぴり悔しくて、シャワーに打たれて落ち込む。そしたら、さらに飛行機がエンジン・トラブルで欠航になってしまった。2時間くらい空港で待っていたけどついになおらなかったようで、JALの手配してくれたホテルにタクシーで向かおうとするが、なんとウミガメの産卵行事があってタクシー乗り場にタクシーが一台もいない。20分くらい待ってやっと来てくれた。翌日も船の入りがあって島中のタクシーが出払うという。運転手さんに明日も迎えに来てくれるようにその場で頼みこんだ。ちなみに私たちのヒーローの名はまつばんだタクシーの堤さんである。


3泊4日になった屋久島旅行。まるで体力トレーニングにいったような活動っぷりだったけど、楽しかったなー。羽田に着いた午後、友人はそのまま会社に出勤し、私は前から約束していた幼馴染の友達に会った。挙句の果てにカラオケ4時間で、もうくたくたである。この旅で、朝4時起きの9時までにできることの生産性に驚いたが、残念ながら実家では実行できそうにない。。と思いながら眠りに落ちた。。








  1. 2010/07/23(金) 16:38:42|
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ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』

原題はPredictably Irrational - The Hidden Forces That Shape Our Decisionsである。私たちが何かを「選ぶ」とき、その背後にはどんな見えない力が働いているのだろうか。購買行動にしても、倫理的行動にしても、人生の行く道についても、なぜ私たちは「それ」を選び、それ以外を選ばないのか。例えば薬局で「あの」シャンプーではなく「この」シャンプーを選ぶときや、「無料」のおまけにつられてもともと買う予定ではなかったものを買ってしまうとき、そして、実は中身はほとんど同じなのにパッケージやイメージの良い方により多くお金を払うとき、私たちにそうさせているのは一体何なのだろうか。

本書は、アメリカにおける行動経済学(Behavioral Economics:人間の経済行動における心理的要因に注目する)入門書のベストセラーとなっているらしい。それもうなずける。とにかく面白い。古典経済学では長らく、人は合理的に行動するものだとされてきたが、近年の行動経済学の研究によっては、実際の人間は「不合理」な行動をとることがある(というか、ほとんどの場合そうである)ということが明らかにされている。何が合理的で何が不合理なのかの区別は難しいのだが、ここで言われている選択における合理性とは要するに、(経済)効果が最大になるような選択のことである。個人の経験による物事の認知の仕方(価値付け)や心理的な要因が、選択に影響を及ぼすのだ。人間は決して、つねに理性的な存在ではない。『予想どおりに不合理』は、行動経済学のさまざまな実験の紹介によって、それを示してくれる。しかも「不合理性はいつも同じように起こり、何度も繰り返される。」そしてそれは実際、日常で私の身にも「予想どおりに」起こっていること(まったく意識されないレベルで)なのである。

例えば、1章「相対性の真相―なぜあらゆるものは―そうであってはならないものまで―相対的なのか」では、相対性を高める「おとり」の選択肢によって選択が操作されることが明らかにされる。「エコノミスト」の購読案内を

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としてあったときでは、一番目の条件では84人がウェブ版とのセット購読、ウェブ版のみが16人、印刷版を0人が選んだのに対し、二番目の条件下では32人がセット購読、68人がウェブ版のみを選んだ。つまり、セット購読のお得度をアピールするような中間項目が追加されることによって、選択が操作されたと言える。相対的に比べることを可能にする「おとり」の選択肢(A・Bという選択肢に加えてA´)が加わることにより、Aが引きたたされるという効果があるのだ。この実験に基づいて、著者は出会いを求めるパーティなどには「あなた’」という、要するにおとりの友達を連れていくことが、デートに誘われる可能性を高めるかもしれないと言う。なぜならあなた’よりあなたのほうが「ちょっと何かが魅力的」だと感じさせることができるからだ。これは、なんとなく誰もが知っている法則のような気がする。

続く2章でも、アンカリング(係留)という意思決定への影響が紹介されている。あることに対して最初に下した決断やその判断の基準となったことが、いかにその後の未来の選択にまで影響を及ぼすのか。私たちが普段何気なく判断していること、つまり習慣づけられた決断は、私たちが最初に下した判断に影響されている。例えば、その品物やサービスから実際に得られる満足度や効用に見合うだけ(納得できるだけ)の値段で買っているだろうか?自分の行動は、自分でも気がついていないアンカーに従っているだけの可能性があるので、見直しの余地があるということだ。

巻末で著者が言うように、「この本で紹介した研究からひとつ重要な教訓を引き出すとしたら、わたしたちはみんな、自分がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。わたしたちはたいてい、自分が舵を握っていて、自分がくだす決断も自分が進む人生の進路も、最終的に自分でコントロールしていると考える。しかし、悲しいかな、こう感じるのは現実というより願望―自分をどんな人間だと思いたいか―によるところが大きい。」(320)のである。

(これをカルチュラル・スタディーズ風に言うと、私たちは"Free to choose"という不自由の中にいるということだ。しかし、私たちは完全に恣意的に選択をコントロールされているわけではなくて、消費行動における主体の自由選択の可能性をより重視する研究もある。)

以下の章も、

3章 ゼロコストのコスト いかに「無料」につられてしまうか

4章 社会規範のコスト 社会規範と市場規範

5章 性的興奮の影響 性的に興奮状態にあるときの選択について

6章 先延ばしの問題と自制心 なぜ問題を先延ばしにしてしまうのか

7章 高価な所有意識 保有効果(所有しているものに過度な価値を感じ、手放せなくなる傾向がある)について

8章 扉を開けておく 可能性を失いたくないために、本当はそれほど価値のない扉にまどわされてしまう

9章 予測の効果 予測(先入観)がいかに判断に影響を及ぼすか。「知識が先かあとかで経験がかわる」

10章 価格の力 プラセボ効果について

11章 わたしたちの品性について その1 ごまかしと不正直について

12章 わたしたちの品性について その2 代替紙幣より現金のほうが正直になる傾向。電子商取り引きに関して;「現金が目にはいらなければ善心にたちかえれないわたしたちが、どうやって不正に傾きがちな心をコントロールするか」(303)

13章 ビールと無料のランチ 独自性要求(人と違うものを選びたがる傾向)、文脈効果(周囲の人が選んだものに影響される)について


と続くが、4章では自分が経験したのと同じエピソード&なんとなく疑問に感じていたことが説明されていたから特に面白かった。長くなるのでここには書かない。興味があれば読んでみてほしい。ちなみに4章のまとめは、「社会的交換に市場規範を導入すると、社会規範を逸脱し、人間関係を損ねることになる」(115)である。お金で愛は買えるのか?誰もが一度は思うような疑問が、さらに深まってしまような話である。











  1. 2010/07/23(金) 12:19:24|
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アントニア・フェリックス 『プライドと情熱―ライス国務長官物語』

アメリカの政治に興味のある人や、ライス国務長官のファンの方にはいいかも知れない。私がこの本を読んで学んだのはライス国務長官のファーストネームがコンドリーザで、コンディという愛称で呼ばれていること、とてつもない鉄人的能力の持ち主だということ、そしてそれは差別に打ちやられてしまわないように、子供のころから「白人の子供よりも3倍優秀であれ」「人より2倍素晴らしくあれ」と、親と一族からの厳しい愛情の中で育ったという基盤があるからこそだということだ。ピアノもかなりの腕だったらしいが、15歳で政治学とロシア語に路線を変更。大学では国際政治学を専攻し、26歳で博士号を取得した後スタンフォード大学で学者としてのキャリアを歩み始める。教授になったのが若干38歳のとき。そして女性初、黒人初、最年少で副学長の座につく。その後ブッシュ政権の顔となったことは言うまでもないが、なんとも、驚くべき人物である。フォーブス誌2005年版では「世界最強の女性」ランキングで1位になったそうだ。確かに、最強である。(しかし、「女が強い」というのはどういうことであるのだろうか。)

内容については詳細が豊富なのだが、正直あんまり面白くなかったので飛ばし読みした。








  1. 2010/07/17(土) 10:51:40|
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石田淳 『超!自分マネジメント整理術』

行動科学マネジメント研究所というのがあるらしい。著者の石田さんはそちらの所長であらせられる。時間のマネジメントと整理がどうも苦手なので拝読。スペースが多くて20分程度で気軽に読める。

要点はありがたいことにP144に簡潔にまとめられている。


<今までの3倍の成果を上げる 自分マネジメント整理術>

ステップ1 「行動」を細かく分解し「重要なもの」と「不要なもの」を見極める
(見極める基準は「その行動が成果に直結しているか?」)

ステップ2 成果に直結している「ピンポイント行動」を一目でわかる形に表現する

ステップ3 「ピンポイント行動」を「計測」し、成果との因果関係を確認

ステップ4 「ピンポイント行動」の実行を継続し、習慣化する


すなわち、たくさんのことに同じエネルギーを費やすのではなく、重要なものとそうでないものを見極めたうえで、のぞんでいる成果に直結していると思われる行動のみを強化(自分に小さなごほうびを与えたりすることによって)するということだ。

中学生のとき、定期テストの前になると必ず計画表を提出させられた。その計画表が効力を発揮することはまったくなかった。それはたぶん、この本によると、決して習慣化されることのなかった無駄な時間割表だ。ある一定の時間に「国語」とか「数学」とか書き入れただけの。そんなやる気のない状態でいたのだが、中2のとき、国語の先生が授業中に言った言葉がやけに残っていた。「本当に実現したいと思うことがあるなら、具体的な目標を立てろ。漠然としているうちは達成にはほど遠い。」

著者も具体的な目標(例えばTOEICだったらいつまでに何点とるetc)+そこにいたるまでの「スモールゴール」(ピンポイント行動によって達成される)を設定することをすすめている。さらに、環境を整えること、そして「望ましいピンポイント行動」を日々達成する自分を評価し、それを分かち合ってくれるサポーターを持つことをすすめている。

今の自分がまぎれもなく、過去に自分がとった行動の積み重ねの結果であるということを思い浮かべると、ひとつひとつ小さなことを積み上げていかないといけないんだなあと思う。

千里の道も一歩から。








  1. 2010/07/17(土) 01:14:08|
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竹村尚子 『すぐ動く人は知っている』

「人よりもほんの少し早く動き、ほんの少し早く決断すれば、道は開ける。」

言うは易し、行うは難し。やらなければと思っていてもなかなかできずに先延ばしにしてしまっていること、もう少し早く決断をしていればという場面でチャンスを逃してしまったことは誰にでもあるのではないだろうか。「あのときこうしていれば・・・」「悩んでいる時間のほうが実はもったいなかったかも知れない・・・」。

「すぐ」動くことができずに悶々と悩んで時間を無駄にしているなあと思っていたので、タイトルにひかれて購入してしまった。私の弱点は行動力・起動力に欠けていることなのである。この弱点をどうにか克服したい!と、行動力を推進する秘訣を求めて手にしたが、その期待はちょっと裏切られた。

著者はムーンライトキャピタル株式会社・代表取締役社長の竹村尚子さんである。アメリカの経済誌『フォーブス』にて「世界のファンドマネージャートップ20」の一人に選出されたスーパーウーマン(←死語だね)だ。彼女は「すぐ動く」というその一点に成功するかどうかがかかっているという。しかも「すぐ動く」のは才能とはまったく関係なく、誰でも身につけられることらしい。要するに「チャンスを逃さないこと」が大切とおっしゃる。しかし、残念なことにその才能と関係のない行動力をどう身につけるのかは書かれていない。

第1章 人と同じことをしない
第2章 まわりの人を不幸にしない
第3章 失敗しても反省しない
第4章 不言実行を格好いいと思わない
第5章 自分探しをしない
第6章 オンリーワンをめざさない
第7章 運がわるくなることをしない 

と、前書きで述べられているとおり、「すぐ動く人」が当たり前のように知っていて実践している大事なこと。つまり竹村さんのいわゆる成功哲学が紹介されているのである。「すぐ動く人~」への私の違いはなるほど、タイトルからの勘違いだったということだ。

細かい内容は章立ての格言的タイトルが一番よくあらわしていると思う。正直、たいしてこれは新しい!ということはないが、3章の「誰かが気づいてくれるなんてただの幻想にすぎない」と6章「一番になれないものに時間をかけてはいけない」にはやっぱりそうなのかーと思った。気がついてもらおうとしないであとから「どうして誰も気がついてくれないの!」という努力は、自分が納得して影でできないのなら、確かにいっそ言ってしまったほうがいいし、やっぱり人間関係は言わなければ気がつかないことのほうが、言わなくても気づくことより多いのかもしれない。そして自分が得意なもので一番になることを目指すのが、結果的に社会への貢献にもつながるのかもしれない。

竹村さんの他己的ビジネスモデルというか、結局はまず社会全体の幸せを考えることのできる人が導かれるように成功する道理になっているという考え方には同意。大筋は巷で大ヒットした過去の啓発本の継承という感じだ。







  1. 2010/07/17(土) 00:41:28|
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読書の夏

夏休みでロンドンから日本に帰ってきて一週間経った。金曜日の夜はなんだか、ロンドンの市街地に出かけないと落ち着かない気がしてくる。ここのところ毎週末、彼や友達と楽しくしていたからだろう。金曜の夜から日曜日の夕方までの時間。学生のわたしにとって長いことあやふやになっていた「週末」という時間やその他の曜日という概念を、すでに社会に出て働いている友人たちが蘇らせてくれた。だから、どうして暦がそうなったのかは依然として不思議だが、金曜の夜は無条件にそわそわしてしまう。

でも今夜は、久しぶりに腰を据えて言葉を綴ろう。言葉は確実に衰えるものだが、人はそれが損なわれてはじめてその重要さに気づく。そう、たぶん健康のように。少なくとも私はそうだ。いま、書く言葉が素直に出てこない。言葉はすでに十分に与えられている、そう思えた(思い込んでいた?)ころ、私は不実だったと思う。何かを「書く」とか「書きたい」とかいうことがあまりにも自然で無理がなかった時代は、過ぎてしまった。「―それでも書き続けなければならないか。」というリルケの言葉が心に浮かぶ。それでも書かなければならないことが、私にはあるのだろうか?

感覚が鈍くなってしまっているのは、もしかしたらインプットが足りないからかも知れない。そう思ってこの夏の帰国中は乱読をすることにした。とにかく読みたい本を読む。そんなことは久しぶりだ。この数年間、研究に関連のある書物しか読んでこなかった。やる気をもってとりかかったとは言え、何年間も同じことに興味を集中しておくというのは難しいことだ。そして普段、ほとんどの本を英語で読まなければいけないということが、正直言ってストレスになっている。よっぽど面白い研究か本当に読みたい内容でなければ、拾い読みすることさえ面倒になってしまうことがあるのだ。本を読むことも、書くことも、いつの間にか楽しみでなくなっていた。一連の作業が、やっつけ仕事のようになってしまったのだ。それは、とても悲しいことだ。

もうしばらく学生でいようと思ったのは、そして研究者になりたいと思ったのは、はじめはごくシンプルな理由だったと思う。本を読むこと(と、思索にふけること)に当てられる時間が、他の職業に比べて圧倒的に長いはずだと思ったからだ。つまり、読みたい本を読みたいときに読める自由があるはずだ、と。そんなに読書が好きだったのかとか、そんなにたくさん本を読んだのかと問われると、的確に答えられる自信はない。例えば他の人に比べてどのくらい読んでいるのかなども分からない。でも、本はどんなときも多くのことを教えてくれる豊かな源泉であると、私は信じていた。本はつねに良き対話の友であり、先生であり、反論者であり、木陰であり、風であり、太陽であった。

たった一冊の本との出合いが、人生を変えてしまうことがある。それを読む前と読んだあとでは、まったく違う人間になっている。もはやどの本がどのような変化を私にもたらしてきたのか、その軌跡を見つけることは不可能になってしまったが、わたしの価値観や言動を変えてしまった本との出会いがあったことは確かだ。いつまでも読み終わりたくない本との出合いや、何度も出会いたい本との出会いも。一冊の本には、計り知れない読解と誤読の可能性が含まれている。時間と空間をこえて、今はもうそこにいない人とも対話することができる。彼らは、言葉に刻まれているのだ。素晴らしい本に啓発されながら、自分もいつか、自分が生きた証として言葉を遺したい。そういう単純な思いが、私が研究者になりたいと思った背景にあったと思う。(期待と実情はかなり違うことが明らかにはなってきたけれども。)

しかし最近はなぜか、高校生や大学生のころそうだったようには、文学を読みたい気持ちがあまりしない。たぶん、あちらの現実よりも、私の生きる現実のファンタジーに興味をそそられているからだと思う。それは、私たちが「生活」と呼ぶところのものかもしれない。人生が思っていたよりはそう長くないと何となく悟ったとき、そして、死ぬ間際になって達成しなかったことや自分の思い通りにはならなかったことを万が一後悔するような場面を想像するとき、私は苦い気持ちになる。それは悪い癖でいつも約束の時間や締め切りに間に合わない自分の、検討違いの時間予測と物理的に限られた時間の折り合いがつかないときがくるのではないかという不安だ。計画はいつも計画通りに進まない。私の場合はいつもビハインドで、どんどん「はみ出る」。命が、間に合わないかもしれない。読める本にも、歩ける距離にも、まばたきの回数にも、声にも、抱きしめる腕にも、おやすみの挨拶にも、限りがある。

・・・

何が言いたかったのかよく分からなくなってきたので強引にまとめるが、要するに、この夏はとにかく読むことを取り戻すために読みたい本を読んで、しかもそれは文学や研究書でなくて良くて、そこからこれからの人生を踏みしめていけるようなビジョンと根拠のない自信を編み出せたらいいなということなのである。あと、書く訓練にもなったらいい。

だから、誰かの役に立つかは分からないが、それを願って、苦手な書評を読書の記録として残そうと思う。







  1. 2010/07/16(金) 23:39:17|
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