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「いのちをたいせつに」

小学校のとき、教室の黒板の上には必ず、「いのちをたいせつに」と書かれた紙が貼ってあった。「命を大切に」。私はこれを、飼育係的視点で解釈していた。ウサギ小屋の掃除やかいこの世話など、ものすごく小さなスケールで世話をしていた小さな命を大切に。そういうことだと、漠然と思っていた。というのも、6年間ずっと、私たちの視界にぼんやりとあり続けた、たいそう意味ありげだけれども特殊な存在感の薄さと不思議さをまとっていた標語について、説明がなされたことも質問がなされたことも、私の記憶の限りでは、一度もなかったからである。

かつて誰かのブログに、この「いのちをたいせつに」について書かれてあったのを読んだ。察するに、彼女はとてもつらい少女時代を過ごしたようで、漠然と「いのちをたいせつに」と何度も繰り返されても何も感じられない、それより「お前の命を大切にしろ!」と誰かが言ってくれたほうがよっぽどよかったのに・・・というようなことを言っていた。そう言われてみれば、この標語には主語がないのである。日本語でよく主語を省略することを考えても、標語の特質としても、主語がないのはむしろ妥当であって、「動物の命を大切に」とか「ともだちの命をたいせつに」、それに「自分の命を大切に」などと書いてあったら、ものすごいインパクトだろう。彼女が言いたかったのはもちろん、「今、そこにあなたが生きているということがとても尊く、愛おしく、素晴らしいことなのです。だからどうか命を大切にしてください。私にとって、あなたの命が大切なのだから」と身近な人に面と向かって言われるほうが、漠然と「いのちをたいせつに」と繰り返されるよりも、人に生きる気力を与える上で有効だということなのだと思う。しかし、なぜ主語がないのだろうか。教育的意味合いという観点をのぞいて、主語がないことにどんな意味があるのだろうか。特定されていない「いのち」。そのありようとは一体、何なのだろうか。

「いのちをたいせつに」という標語はその意味するところをさまざまに変えてきたはずである。それがいつから、どの地域の小学校で見かけられるようになったのか、そして今でも標語として生きているものなのかは定かでない。たとえば最近では、「いのちをたいせつに」と聞いたらいじめや、麻薬や、少年犯罪などを連想することが多いのかもしれない。または、やはり動物や植物などのいのちを慈しむことや、無駄な殺生をしないことなど、たぶん本来的であるそういう仏教の教えを思う人が多いだろう。(こどもはどんな感じでこれを受け止めているのかわからないが。)数年前に日本でもよく読まれた、『利己的な遺伝子』の見方に照らし合わせれば、むしろ「遺伝子を大切に」ということになるだろうか。しかし簡単なようで難しい言葉である。「いのち」ということも、「大切にする」ということも、わたしたちには、わかっているようで実はよく分かっていないことなのではないか。こんなことを言ったら怒られそうだし各方面からは専門的な解答が得られそうなのだが、「いのち」とは一体何だろう。「いのち」の定義、そしてそれを「大切にする」とは、具体的にどういうことなのだろう。人口知能(AI)の研究やロボット工学の発展、そしてバイオテクノロジーの発展によって、人間に似たロボットやクローン胚が作り出されている今、「いのち」を考えることはますます難しくなっている。「いのち」の解読のために発展した技術によって、たぶん科学的には、「いのち」とは何か、または「人間」とは何かが解明されつつあるのかもしれない。しかし哲学的、また宗教的問いとしての「いのち」とは何かということについて、語ることはなお困難である。

太古から人間は、私たちが流れ出たところのもの、つまり「いのち」の総体とは何かということについて考えをめぐらしてきた。また、それは私たちが存在する意味や目的についての議論や、「いのち」の作り手やその在り方についての問いとも重なり合ってきた。たとえば、現代キリスト教においては(すべての教派がそうではない)、人間を含むこの世界のすべては神によって創造されたことになっている。この世にあるものはすべて、唯一の神による創造の神秘に満ちている。ヒンドゥー教では、神はいたるところに潜在している。動物も植物も神であり、人間も神である。仏教では、命は一時的に与えられた肉体であって、肉体が滅びた後も、魂は輪廻転生を繰り返してニルヴァーナを目指す。そのほかにも諸説あるが、つまり「いのち」は偉大なるものからいただいたもの、借り物、または借りているという形態そのもの(生きているということ)なのであって、私たちのうちの誰か特定「個人」のものではないのである。宗教はつねに、個を全体として考え全体を個として考える、つまり、一を多にむすびつけ多を一に統一する、そういう世界観を構築してきた。哲学においても科学においても、このような個と普遍に関する疑問が中心となって、その理論を発展させてきたのだ。「いのち」は究極的にひとつであり、それでいて個人のいのちや人生はひとつひとつ尊い。「わたしたちは何ものの命も貶めるべきではない。なぜなら、すべてがひとつであり、私たちの想像の域を超えた莫大な宇宙で、あなたとわたしはつながっているのだから」。それが真実かどうかは別として、人間は「いのち」を「つながり」として捉える思考を発展させてきたのである。

つまり「いのちをたいせつに」の「いのち」は、匿名なのである。というか、匿名でしかあり得ないのかもしれない。私たちは命というものをうまく理解することができないし、それはありふれていてそれでいてひとつひとつ違う(または違って見える)からである。そもそも、いのちは数えられないのかもしれない。もしもそれが、別々に見えて本当はひとつのものであったり、ひとつに見えて実は別々のものであったりするのなら。たぶん、そういうことを頭のすみに置きながら、私はその時々に応じながら、私がそう思う「大切にする」の仕方を実践していくしかないのだろう。それが「 」のいのちであれ、いのちはひとしく「いのち」なのだから。

















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  1. 2010/03/27(土) 10:44:08|
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