DETOUR AHEAD

If you don't know where you are going, any road will lead you there.

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わたくしというもの

病に侵されつつもまだまだ頑固なおじいさんが、「わしの体のことはわしがいちばんよく知っとるんじゃい!」、というようなシーンをドラマなどでよく見かける。確かにそれ相応のおん歳になられれば、自分のことは自分がいちばんよく分かるのだろう。よく分かるというか、少なくともよく分かっているという自負があるのだろう。そして「わしのことは・・・・」のくだりはたぶん、長年付き合ってきた自分の体、そしてこころも含めた自分自身の、「歴史」をアッピールする心情なのではないかと思う。医学的に現状を正確に把握できているかどうかとか、感覚的・直観的に健康状態を自己診断をできるといった類のものではなくて、「わたし」が結局、「私」にいちばん近く寄り添ってきたという信念のようなものである。

若者はどうだろうか。私が10代の頃に巷で流行っていた「自分探し」という言葉があった。(今でも自分探しの旅は知られざる人気ツアーなのかもしれない。)「わたし」とは何であるのか。どこから来て、どこへ行くのか。「アイデンティティ」ということばが盛んに叫ばれた時代(の、たぶん余波を受けた時代)である。中学のとき、道徳か英語か社会の授業で、「私とはOOである」という空欄を8つ埋めなさいというプリントが配られたことがあった。マズローの社会的認識の欲求などを一緒に教えられていたときである。「私は女である」「私は人間である」「私は中学生である」「私は体操部の部員である」「私は・・・」。○○を埋めることばが見つからなくて、後ろからプリントが回ってきて提出をしなければならない間際に、苦し紛れに何か埋めたのを覚えている。私はわたしを、知らなかった。ある意味では大変よく知っていたし、ある意味では非常に無知だった。折々にこっそり書きためていた門外不出の詩編や、毎晩綴っていたキャンパスの青い背表紙の「人生ノート」の中には確かにわたしがいて、むしろそこにしかいなかったのだが、「私は○○である」というような「わたし」の社会的ビーイングについて、人に言えるようなわたしの在り方について、私の認識は極めて乏しいものだった。もしあの時、「わたしは哲学者である」とか、「私は詩人である」とか、「わたしは猫である」、または「私は葉っぱのフレディである」とか書いていたら、先生からどんなコメントがかえってきたのかと思うと、ものすごく惜しいことをしたような気がする。

とにかく「わたし」というもにゃもにゃしたものについて、私の知っていることはわずかであったし今もきっとそうである。そして、自分より他人のほうが「わたし」をよく分かっているときがあることを、私は知っている。ときがあるというか、たぶんかなり多くの場合に。私が常日頃思っていることのひとつに、「私のことをいちばん心配しているのはわたしだ」というのがある。どんなにつらくて本当に厳しい状況にあっても、なぜか人は言うのだ。「あなたについて心配することは何もない」と。現状を伝えようと必死になろうと、どれだけ危うい精神状態にあることを訴えようと、なぜか人は、心配していないと言う。何があろうとどんな形であろうと、とにかくやり遂げるだろう。私のことばとは裏腹に、私の人生の安定を疑わない人々。だからいつも思うのだ。「私のことをいちばん心配しているのは、いつも私だ」と。もちろん、自分の感じていることや自分の自分自身に対する判断が重要なときもある。しかし、それが当てにならないというか、あまり信頼を置き過ぎないほうがいいときもあるのだ。例えば、自分の絶対の自信作がコテンパンにけなされたときは、「なにくそ~!」と思って自分を信じていたほうがいい。だが、自分に自信がなくて行き先が決まらないときは、他人の自分への(良い)評価に、自分を任せてみたほうがいいこともあるのではないだろうか。それで何かが開けることもあるかもしれない。自分の自分に対する評価は、思っているほど絶対的なものではないし、まして人とのかかわりの中で、「わたし」を客観的に見ている「私」はまず、他人なのである。

自分だけが自分をよく知っているとか、本当の自分は自分にしか見つけられないとか思うのはあまりよろしくない。「わたし」とは意外と、他人が見つけてくれるものだったりするのである。というのも、たぶん自己イメージと、他者の自分に対するイメージのはざまに、自己なんぞというものは落ちていたりするだろうからなのだ。わたしは未だに私というものがよく分からないから、こんなことを考えるのかもしれない。「わたし」なんてなくなって、そこらへんの葉っぱや水や、雲や風になって大切な人を見守っていられたらいい。そんな憧れを捨てきれないわたしは、いまだに「わたくしというもの」に苦心している。

















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  1. 2010/04/01(木) 07:57:36|
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  4. | コメント:1
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コメント

同感

kumyの文章にはいつも、ちゃんとオチというか、起承転結のようなものがあるので、読んでいる時に不思議と安心感がある。「わたし」というものを、原理的に言うのなら、「わたし」は「わたし」を誰よりも知っていることにはならない。むしろ「自己」にとっての「他者」であるというようなことを、ジャン・リュック・ナンシーとか読むと感じる。「心配」というワードもよかった。「自分のことをいつも一番心配してるのは自分だ」という命題は、僕もいつも思う。誰も自分を心配してくれないと。医者でさえそうだからなあ。でもあんがい、あいつ頼りないなあなんて思われまくってたりして。
  1. 2010/04/01(木) 14:17:21 |
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