DETOUR AHEAD

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読書の夏

夏休みでロンドンから日本に帰ってきて一週間経った。金曜日の夜はなんだか、ロンドンの市街地に出かけないと落ち着かない気がしてくる。ここのところ毎週末、彼や友達と楽しくしていたからだろう。金曜の夜から日曜日の夕方までの時間。学生のわたしにとって長いことあやふやになっていた「週末」という時間やその他の曜日という概念を、すでに社会に出て働いている友人たちが蘇らせてくれた。だから、どうして暦がそうなったのかは依然として不思議だが、金曜の夜は無条件にそわそわしてしまう。

でも今夜は、久しぶりに腰を据えて言葉を綴ろう。言葉は確実に衰えるものだが、人はそれが損なわれてはじめてその重要さに気づく。そう、たぶん健康のように。少なくとも私はそうだ。いま、書く言葉が素直に出てこない。言葉はすでに十分に与えられている、そう思えた(思い込んでいた?)ころ、私は不実だったと思う。何かを「書く」とか「書きたい」とかいうことがあまりにも自然で無理がなかった時代は、過ぎてしまった。「―それでも書き続けなければならないか。」というリルケの言葉が心に浮かぶ。それでも書かなければならないことが、私にはあるのだろうか?

感覚が鈍くなってしまっているのは、もしかしたらインプットが足りないからかも知れない。そう思ってこの夏の帰国中は乱読をすることにした。とにかく読みたい本を読む。そんなことは久しぶりだ。この数年間、研究に関連のある書物しか読んでこなかった。やる気をもってとりかかったとは言え、何年間も同じことに興味を集中しておくというのは難しいことだ。そして普段、ほとんどの本を英語で読まなければいけないということが、正直言ってストレスになっている。よっぽど面白い研究か本当に読みたい内容でなければ、拾い読みすることさえ面倒になってしまうことがあるのだ。本を読むことも、書くことも、いつの間にか楽しみでなくなっていた。一連の作業が、やっつけ仕事のようになってしまったのだ。それは、とても悲しいことだ。

もうしばらく学生でいようと思ったのは、そして研究者になりたいと思ったのは、はじめはごくシンプルな理由だったと思う。本を読むこと(と、思索にふけること)に当てられる時間が、他の職業に比べて圧倒的に長いはずだと思ったからだ。つまり、読みたい本を読みたいときに読める自由があるはずだ、と。そんなに読書が好きだったのかとか、そんなにたくさん本を読んだのかと問われると、的確に答えられる自信はない。例えば他の人に比べてどのくらい読んでいるのかなども分からない。でも、本はどんなときも多くのことを教えてくれる豊かな源泉であると、私は信じていた。本はつねに良き対話の友であり、先生であり、反論者であり、木陰であり、風であり、太陽であった。

たった一冊の本との出合いが、人生を変えてしまうことがある。それを読む前と読んだあとでは、まったく違う人間になっている。もはやどの本がどのような変化を私にもたらしてきたのか、その軌跡を見つけることは不可能になってしまったが、わたしの価値観や言動を変えてしまった本との出会いがあったことは確かだ。いつまでも読み終わりたくない本との出合いや、何度も出会いたい本との出会いも。一冊の本には、計り知れない読解と誤読の可能性が含まれている。時間と空間をこえて、今はもうそこにいない人とも対話することができる。彼らは、言葉に刻まれているのだ。素晴らしい本に啓発されながら、自分もいつか、自分が生きた証として言葉を遺したい。そういう単純な思いが、私が研究者になりたいと思った背景にあったと思う。(期待と実情はかなり違うことが明らかにはなってきたけれども。)

しかし最近はなぜか、高校生や大学生のころそうだったようには、文学を読みたい気持ちがあまりしない。たぶん、あちらの現実よりも、私の生きる現実のファンタジーに興味をそそられているからだと思う。それは、私たちが「生活」と呼ぶところのものかもしれない。人生が思っていたよりはそう長くないと何となく悟ったとき、そして、死ぬ間際になって達成しなかったことや自分の思い通りにはならなかったことを万が一後悔するような場面を想像するとき、私は苦い気持ちになる。それは悪い癖でいつも約束の時間や締め切りに間に合わない自分の、検討違いの時間予測と物理的に限られた時間の折り合いがつかないときがくるのではないかという不安だ。計画はいつも計画通りに進まない。私の場合はいつもビハインドで、どんどん「はみ出る」。命が、間に合わないかもしれない。読める本にも、歩ける距離にも、まばたきの回数にも、声にも、抱きしめる腕にも、おやすみの挨拶にも、限りがある。

・・・

何が言いたかったのかよく分からなくなってきたので強引にまとめるが、要するに、この夏はとにかく読むことを取り戻すために読みたい本を読んで、しかもそれは文学や研究書でなくて良くて、そこからこれからの人生を踏みしめていけるようなビジョンと根拠のない自信を編み出せたらいいなということなのである。あと、書く訓練にもなったらいい。

だから、誰かの役に立つかは分からないが、それを願って、苦手な書評を読書の記録として残そうと思う。







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  1. 2010/07/16(金) 23:39:17|
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